作品概要 |
Jericho(エリコ)はパレスチナに位置し、「最古の町」とも言われる死海ほとりの町。松田正隆が書き、1998年に上演された同名戯曲を改訂し、『Jericho2』として上演された。三浦が京都へ長期滞在して制作した二つ目の作品となる。当時、宿舎と稽古場のある京都芸術センターとを自転車で行き来するうちに、三浦の中で京都への移住というアイディアが生まれたという。2005年にはフランス2都市を巡演。 |
撮影:平野愛
2003 | |
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日程・会場 |
2003.7.3-9 京都芸術センター フリースペース
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2005 | |
日程・会場 |
2005.4.20-23 Maison de la culture du Japon a Paris(パリ)
2005.5.23-25 THEATRE DIJON BOURGOGNE Parvis St. Jean(ディジョン) |
作 | 松田正隆 |
演出 | 三浦基 |
出演 |
ピエール・カルニオ 内田淳子 |
スタッフ |
照明:吉本有輝子
ニュースレター編集:田辺剛[京都公演] |
企画・製作 | 内田淳子&ネットワークユニットDuo[京都公演] |
主催 |
地点[フランス公演] 地点[2005年] |
助成 | 国際交流基金 財団法人セゾン文化財団 平成17年度国際芸術交流支援事業[以上、フランス公演] |
劇評 |
客席を向いたまま、内田が猛烈な早口で、なんの所作もつけず、故意に平坦な抑揚、不自然なアクセントでしゃべりはじめる。男に薬を塗るところも、それらしい身振りはしない。せりふから感情を奪い、意味をはぎとり、音符あるいはノイズの集積として流れでるままにする。単語おのおのの意味はうすれるが、それを連ねて発話することで、意味を持ったうねりが生じる。(中略)部分部分では何の意味もあらわさない不条理なことばが、あつまって全体をなすと、人間の業と愛情をえがきだす。ダンスの振りのひとつひとつに意味がなくても、それを連ねた動きに意味が生まれるように。そのことの驚きを、この上演をみのがした人に、何よりも伝えたい。観た人にとって、この前衛性と芸術性は、いつまでも記憶に刻まれるにちがいない。 テアトロ9月号 太田耕人 |
劇評 |
松田のテキストが、いわば不連続な音の破片と化すまでに、徹底的に破棄する演出方法は、これまでの三浦のスタイルと比べて大きな変化はない。だが、共同作業の直接の相手を二人の俳優(内田淳子、ピエール・カルニオ)に限定することによって、彼のもっとも関心をもっているであろう俳優の身体的変容という主題が、かつてないほど明確化され、問題化されていたことは、近年の舞台全般のなかでも、充分に通用する強度を備えていたように思う。おそらくそれは、文化庁による二年間のフランス在外研修と、帰国後の『断章・鈴江俊郎』から『海と日傘』に至る、少なくない〈まわり道〉の体験が、一つの形、一つの答えを見出した〈贅沢〉の成果であったに違いない。(中略)いかにして〈贅沢〉と迂回をもって、貧困化の時代に抵抗するか、という問題意識を具体的に示しえているという点で、『Jericho2』の持つ意味は決して小さくはないのである。 シアターアーツ18号 森山直人 |
劇評 |
意味のニュアンスを無化し、音階で語ってゆくような独自のせりふ回し。間の取り方も感情よりリズムを重視するが、単に言葉を記号化し節をつけたのではなく、戯曲を丁寧に読解し意味を再構築している。日本語に一部フランス語が交じるが、違和感はなく、微妙な差異がむしろ心地よいハーモニーとして響く。(中略)自分の論理を押しつけるごう慢や、愛憎などの感情から始まる蹉跌(さてつ)や罪、破滅は個人の人生からぬぐい去ることはできない。個の集合体としての社会ではなおさらだ。一組の男女を起点に、人間社会のもろさや弱さをエロスや暴力、戦争、死などのイメージを重ねながら活写した。感情に頼らぬ演技だからこそ、むしろ主題が際立ったと言える。身体と空間の関係がち密に計算された舞台。最小限の凝縮された動きで最大限の世界を描いた、メタファーに満ちた舞台であった。 日本経済新聞2003年7月14日夕刊 九鬼葉子 |
「ピエール パルティー ドゥ 『テツノアジガスル』 イズ プリュ クリア ウチダサン セイムタイム スコシダケ ネムタクナッテプリーズ ア、ネムタクナッテ エ エル ブゥ ドフミール ネ」
(ピエール、『鉄の味がする』からもっと鮮明に発音してください、内田さん、同時に少しだけ眠たくなってください。あ、(ピエールに)眠たくなってはエル ブゥ ドフミールね)
この指示は、その内容自体に意味を持たないのであり、お互い了解したいことは、きっともっと別にある。
ことばとは深刻であるがまず滑稽である。
三人しかいなかった稽古場には、終幕を脱稿した松田さんと本気のスタッフたちがやってきた。何かおそろしいものが産まれる気配を、人は緊張感と呼ぶらしい。しかし、稽古場は相変らず、ダメなイングリッシュが氾濫し滑稽なのだ。まるで世界がそのように。
三浦 基
出典:当日パンフレット