作品概要 男と女という極小の人間関係に起こるドラマを描きながら、歴史や人間存在について問いかける『Jericho』。皇太子暗殺の計画に関わった妹と、島で司祭をする兄の葛藤、すべてが解決されない混沌のうちで、頼るべきもののない人間の無常を描いた『沈黙と光』。
当時、京都在住だった松田正隆の作品を2本立てで上演、移転後初の東京公演を行った。

 

 

 

撮影:青木司

 

2006  
日程・会場
2006.1.8-9 / 1.14-15 京都芸術劇場 春秋座
2006.1.19-22 / 1.26-29 シアタートラム
 
松田正隆
演出 三浦基
出演 『Jericho』
内田淳子
ピエール・カルニオ

『沈黙と光』
安部聡子
石田大
大庭裕介
小林洋平
山本陽子
スタッフ 舞台美術:杉山至×突貫屋
照明:吉本有輝子
音響:堂岡俊弘
映像:山田晋平
舞台監督:西田聖
演出助手:村川拓也
宣伝美術:京
制作:田嶋結菜×橋本制作事務所
  京都造形芸術大学 舞台芸術研究センター 上演実験シリーズ vol.26
主催 地点、京都造形芸術大学舞台芸術研究センター[京都公演]
提携 世田谷パブリックシアター[東京公演]
助成 芸術文化振興基金

 

 

三浦 いくつか松田さんの作品でやりたいものはあったんですが、今回は2本立てでやるので『Jericho』のことも考えました。『Jericho』では誰だかわからない男と女が、個と個が出会うように最初からしつらえられている。それに対して『沈黙と光』というのは、集団がしつらえられている。グループをどういう風に描くかということに一番惹かれました。僕は俳優を「個」として見ることは得意としているんですけれども、関係性の中で「集団」がどう動いていくのかということをやってみたいという欲望と『沈黙と光』のストーリーが合致した。それ以外の理由はないんです、意外と。何でもいいんです、作品は。ぶっちゃけ、俳優がいなければやらない。僕は劇作家じゃないから、俳優が何人いる、ということから戯曲は限られてくる。もう一つの理由は長崎弁で書かれてあったということ。それをどうしてくれよう、と(笑)。松田作品では、『海と日傘』(1997年)を長崎弁のままやったこともあるのですが、方言をどう発語するのか、あるいは方言にしないのか、ということも面白いと思いました。
松田 『Jericho』と『沈黙と光』は極端だよね。『Jericho』はポーランドに住んでいたユダヤ人とパレスチナ人の話。それを日本人とフランス人が演っているという、無国籍というか非常に抽象性の高いものだけど、それに対して『沈黙と光』は土着的な世界だと思います。
三浦 その極端な世界観の作品を一緒に上演すると面白いんじゃないか、それを見てみたいと思いました。その辺りが『沈黙と光』を選んだ理由です。

出典:三浦基×松田正隆・志賀玲子インタビュー
『KPAC ニュースレター vol.7』(発行:京都造形大学 舞台芸術センター)巻頭インタビュー
劇評 心の奥底へ 静かに落ちる

演出家・三浦基の腕のさえが感じられる舞台だ。隠喩に富んだ松田正隆の二人芝居を、鮮やかに、心に響く形で立体化した。
ポーランドから来たユダヤ人女性(内田淳子)が、パレスチナのエリコに向かう途中、負傷兵(ピエール・カルニオ)と出会う。うめき声を上げる兵士を手当てするうちに身の上を語り始め、記憶の底から末期がんで死んだ夫がよみがえる。
三浦の演出方法は独特だ。せりふから意味や感情をはぎ取り、俳優に単なる音の連なりとして語らせる。観客は、“せりふを見る”感覚で舞台に接することになる。内田の語り口は子音の粒が見えるほど滑らか。対するフランス人のカルニオはぎこちなく、言葉の塊を放り出すように語る。
飛び交う言葉から広がるイメージは、両者の意味深なポーズや位置関係、小道具、繊細な照明の効果でより増幅されていく。
女が明かすのは、夫の闘病や死後に知った不貞、隠し子との対面。夫の亡霊は詰問され、死に直面した時の絶望を語り、ついにはナチスの大量虐殺の悪夢をよみがえらせる。
その間、女は卓上にほとんど正座したまませりふを操る。その不自由な姿は時代の閉塞感の象徴のようにも映る。一方、相手の男は唐突に崩れ落ち、力なく座り込む。愛憎劇の形を取ってはいるが、現代社会のもろさや、熱砂の戦場、大量虐殺、誰もが避けられない死といった多彩なイメージが読み取れた。

読売新聞 2006.1.25
祐成秀樹