作品概要 ロンドンはグローブ座からの依頼で制作した地点初のシェイクスピア作品。シェイクスピアが最後に書いた悲劇は、戦争の天才でありながら民衆の反感を買い、破滅する英雄の物語。ブレヒトが翻案したことでも知られています。主人公の幼児性を茶化す楽団、コロスの手にはおもちゃの喇叭。地点ならではの音楽劇となりました。

コリオレイナス

 

コリオレイナス

 

コリオレイナス

 

コリオレイナス

 

撮影:Simon Annand 

 

 

2012  
日程・会場
2012.5.21-31 グローブ座(ロンドン)、舞台芸術学院TAUホール(モスクワ)、ペテルブルク青年劇場(サンクトペテルブルク)
2013.1.25-29 京都府立府民ホールアルティ
2013.4.20-25 ゴーゴリ・センター(モスクワ)、マリ劇場(ノヴゴロド)
 
原作 ウィリアム・シェイクスピア
翻訳 福田恆存
演出 三浦基
出演 安部聡子
石田大
窪田史恵
河野早紀
小林洋平
演奏 桜井圭介
向島ゆり子 
スタッフ

衣裳:堂本教子
舞台監督:大鹿展明 
美術:杉山至+鴉屋
照明:藤原康弘
音響:堂岡俊弘
舞台監督助手:田中倫子
宣伝美術:松本久木 [京都、東京公演]
制作:田嶋結菜
撮影:Simon Annand

主催 合同会社地点
助成 文化庁国際芸術交流支援事業
EU・ジャパンフェスト日本委員会
  京都芸術センター制作支援事業

 

 

シェイクスピア劇の殿堂であるロンドン・グローブ座からの依頼で、初めてシェイクスピアをやることになったことは、大変な光栄ではあったのだけれど、そういう権威に安易に便乗したくないという私の強がりが、今日、ご覧いただく作品であります。とにかくあらゆる直感とこれまでの私の演劇に対する批評を総動員した演出となりました。その結果、イギリスやロシアの公演では観客の熱烈な拍手をもらうことができたわけですが、今日、みなさんからそんなに容易く受け入れられるとは考えていない次第です。
なぜかと言いますと、二つの理由があります。ひとつは、逆輸入モノにはどうしても私たちは、ケッ、こんなものが外国では評価されるのか、と、警戒心を抱くということ。もうひとつは、なんだ未だにジャポネスクを評価されたのではないか、という、ま、言ってみれば西洋人のオリエンタリズムに対するコンプレックス、そういうことをやっぱり考えてしまうということ。
つまりシェイクスピア劇というものは、イギリス本国を除いて、常にこうした複雑な思いをまとうものなのだと思います。だから、イギリスで評価されたことはとても健康的なことに違いないのだけれど、シェイクスピア劇を権威化してしまった「演劇」というジャンルへの懐疑心、後ろめたい思いが私たちにはあるのではないか。難しい言い方をやめると、伝統への疑いです。なぜ、今、シェイクスピアなのか、と人は問うでしょう。その答えはないのですよ、本当は。それを無理して、いろいろとこじつけようとするから「権威」に頼るのですね。そういう後ろめたさはすっぱり捨てました、私は。この芝居を演出しているときに。
正直に言うと、こんなに苦労した作品はない。おかげで体力はつきました。それだけは、シェイクスピアに感謝したいと思います。こんなに現代性の希薄な作品はやったことがなかったもの。日本で言うところの戦国時代の将軍の話なんて興味がなかったもの。時代劇ほど、現代演劇と懸け離れたものはないでしょう?
私は演劇的な知恵と技術でもってこの作品を料理しました。そしたら、気がつくことがありました。選挙に臨んだコリオレイナスは民衆が愚かだと罵倒しました。その結果、民衆から追放されて敵国の兵隊になりました。昨年末の総選挙後の日本で、このシェイクスピア最後の悲劇は、極めて喜劇的なものとなるのではないか。そんなことを結果的に感じてしまったこの作品が、決してこじつけではなく、みなさんに自由に評価されることを心から願っています。

三浦基
劇評 実験的な演劇をつくる三浦の作品は別の意味でも、削ぎ落とされていた。劇団の才能のあるお気に入りの俳優たち4人で、いわば抽象的なコロスを仕立て、主役以外のすべての役を演じさせたのだ。彼らは舞台を闊歩し、ポーズをとり、子羊のようなかわいい声でコリオレイナスをからかう。(中略)彼らの喜劇的なタイミングのつかみ方は絶妙で、前半のおしまいで、喚くコリオレイナスを担いで舞台から運び出すところでは、幕に入ってからも彼のかんしゃくが聞こえてくる。大衆に「迎合」しなければならぬことを蔑視する、この政治家志望の男は、子どものように振る舞うのだから、したがって子どものように扱われるべきだと、三浦は言っているようだ。

The Guardian
クリス・マイケル
(一部抜粋/翻訳:太田耕人)
劇評 このちっちゃな集団は、(中略)その根本的に現代的な着手のしかたで、彼らが紛れもないミニマリストあることを、即座に証明したのである。観客たちは紛れもなくこの上演に興味を惹かれ、魅せられた。劇がその悲劇的クライマックスに達したとき、禅でいう悟りの境地がこのグローブ座で触知可能なものになったように思え、三浦と俳優たちは盛大な拍手を得て、満面の笑みで喜びを発散させた。

The Arts Desk
アンジー・エリゴ
(一部抜粋/翻訳:太田耕人)
劇評 つまるところこの作品は、シェイクスピアの最後のローマ劇の魅力的な上演であり、地点は深い洞察力をもった三浦の熟達した演出の下、この劇の新鮮な解釈を差し出すというズバ抜けた仕事をやってのけた。それは時に見過ごされがちな、演劇における動き、音、身体の重要性を際立たせるものだった。実は、こうしたものこそ、このフェスティバルにおけるすべての非英語上演において、私たちが正しく評価することを迫られている上演要素なのである。

Blogging Shakespeare
アデル・リー
(一部抜粋/翻訳:太田耕人)
劇評 地点の俳優は音量、強弱、速度、高低、抑揚、区切り等を自在に操り、声にさまざまな表情を付ける。たとえば、劇場全体に響き渡る声がそれ自体で武勲の誉れ高いコリオレイナスの圧倒的な存在感を示したかと思えば、外国人訛りを誇張したようなぎくしゃくした声が彼の無骨さを直観的に描き出したりもする。それは、単に怒りを表現したいから声を荒げるといった習慣的なものではなく、感覚に直接作用するもっと根源的なものに支えられていたように思われる。頭ではなく耳で台詞を理解させられたと言えばいいだろうか。声に圧倒され、声に笑う。地点の取り組みは現代演劇に声を取り戻す試みでもあるのかもしれない。

京都芸術センター「明倫art」2013年3月号
正木喜勝