作品概要 地点初の子ども劇。脚本は鉄割アルバトロスケットの戌井昭人が担当。見えない織物と見えない国境線。王様のおしゃれと領土問題は、見えないものを見えるフリする大臣と、イカサマ師の言葉の濫用で、止めどなく複雑化していく。劇は子どものうちに見なければ大人になれない。大人になれないおとなと子どもが見る劇。はだかの王様。

はだかの王様

 

はだかの王様

 

はだかの王様

 

撮影:阿部綾子

 

 

 

2012

 
日程・会場

2012.9.22-26 京都芸術センター 講堂

 

原作 ハンス・アンデルセン
脚本 戌井昭人
演出 三浦基
出演 安部聡子
石田大
窪田史恵
河野早紀
小林洋平
スタッフ 舞台美術:杉山至+鴉屋
照明:藤原康弘
音響:堂岡俊弘
衣裳:堂本教子
舞台監督:大鹿展明 宣伝美術:納谷衣美
制作:田嶋結菜
撮影:阿部綾子
製作 地点
共同制作 KYOTO EXPERIMENT
主催 合同会社地点/KYOTO EXPERIMENT
助成 芸術文化振興基金/EU・ジャパンフェスト日本委員会
  京都芸術センター制作支援事業/KYOTO EXPERIMENT2012参加作品

 

 

生身の観客 三浦基

最近、子ども劇『はだかの王様』の公演をしてわかったことがあった。
全部で10回程上演したのだが、中には客席に子どもが少なくほとんど大人しか見ていない回などもあり、客席の反応は日ごとにだいぶ異なったものであった。例えば子どもが多い日は、俳優の滑稽な動きひとつで盛り上がる。大人が多い日は台詞の内容によって場の空気が緊張したり緩やかになったりする。
私が興味を持ったのは、そういった大人と子どもの感受性の違いではなく、その両者が同居している客席の雰囲気だった。最前列を子ども優先席とし、その後ろに大人が座るというかたちの客席だったのだが、子ども達が大笑いするシーンでは、うしろからその様子を大人達が微笑ましく眺めている。また、ちょっと子どもには追いつかない大人のブラックユーモアが語られるとき、子ども達は笑っている後ろの大人たちを振り返って、何が面白いのかと不思議そうな顔つきをしている。
私たちはあるものを見るとき、人はそれをどう受け止めるのかということを常に考えてしまう。いや、自分の見方というものが果たして本当にあるのかどうかを疑って生きていると言った方が正しいのかもしれない。終演後の観客の感想で多かったのは「子どもたちが喜んでいてうれしかった」「子どもが多い日はもっと反応がいいんでしょ」というような、自分が劇をどう見たかということではなく、子ども(架空の子どもも含めて)を通した劇との出会いについて語ったものだった。
客席における大人と子ども相互の視線の行き来を見ると、演劇が舞台上のみで展開されるものではないということに気づかされる。今回の子ども劇では客席の反応が舞台のある前方にのみ向かうのではなく、客席の間にもその道筋があった。
このことで思い出したことがある。今年5月にロンドンのグローブ座でシェイクスピア作品を上演する機会があった。シェイクスピアの生きていた時代の劇場を再現した特殊なつくりの劇場だ。平土間にあたる部分は400名もの立ち見客が入るスペースとなっていて、それを囲むように半円形にバルコニー席が三階まで建てられている。平土間部分には屋根がなく見上げると天空が広がる。バルコニー席の観客は、舞台だけでなく平土間にいる観客を見下ろすことができる。反対に、立ち見の観客が空を見上れば、バルコニー席に座る面々が必ず視野に入るといった具合である。つまり観客同士が「見られている」という意識で、劇を見る構造なのである。
私の演出では、平土間の観客達を劇の中に登場する民衆に見立て、俳優が直接観客に語りかけるシーンがあったのだが、観客自身が何かを演じているような雰囲気になったのは、とても豊かな演劇体験だった。
「生(なま)」であることがしばしば演劇の特権として語られるが、それは必ずしも俳優が生身でそこにいるからではない。観客もまた生身でそこにいること、そのことに観客同士が気づいていることが演劇の醍醐味なのだ。

出典:西日本新聞 2012.10.27