作品概要 |
『光のない。』に続き、地点と三輪眞弘が挑むイェリネク第2弾。戦争の代替としてのスポーツ、身体から逃れられない人間の宿命を、急傾斜の芝生のフィールドで反復横跳びする俳優たちが表現。ドレミパイプを1本ずつ携えた14名の合唱隊がスポーツに絶対不可欠な観衆を体現した。ギリシア悲劇からボディビルダーまで、イメージを詰め込むだけ詰め込んだ原作テキストを身体を使い切って応えた地点作品随一の大作。 |
撮影:松見拓也
2016 | |
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日程・会場 |
2016.3.5-6 ロームシアター京都サウスホール
2016. 3.11-21 KAAT神奈川芸術劇場〈大スタジオ〉 |
作 | エルフリーデ・イェリネク |
翻訳 | 津崎正行 |
演出 | 三浦基 |
音楽監督 | 三輪眞弘 |
出演 |
安部聡子 石田大 小河原康二 窪田史恵 河野早紀 小林洋平 田中祐気 |
合唱隊 |
朝日山裕子、井上和也、今井飛鳥、今泉唱、大畑和樹、大道朋奈、金子仁司、田嶋奈々子、野老真吾、圜羽山圜、真都山みどり、村田結、好光義也、米津知実 |
スタッフ |
舞台美術:木津潤平
照明:大石真一郎(KAAT神奈川芸術劇場)
照明オペレーター:岩田麻里(KAAT神奈川芸術劇場)
音響:徳久礼子(KAAT神奈川芸術劇場)
音響オペレーター:今井春日(KAAT神奈川芸術劇場)
衣裳:コレット・ウシャール
衣裳製作:薦田恭子
Kinect監修:高見安紗美(IAMAS)
舞台監督:小金井伸一(KAAT神奈川芸術劇場)
プロダクション・マネージャー:山本園子(KAAT神奈川芸術劇場) 技術監督:堀内真人(KAAT神奈川芸術劇場)
宣伝美術:松本久木
制作:伊藤文一(KAAT神奈川芸術劇場)、小森あや、武田知也(ロームシアター京都)、田嶋結菜
制作協力:井神拓也 |
主催 |
【京都公演】京都国際舞台芸術祭実行委員会
(京都市、ロームシアター京都、公益財団法人京都市音楽芸術文化振興財団、京都芸術センター、公益財団法人京都市芸術文化協会、京都造形芸術大学舞台芸術研究センター)
【神奈川公演】KAAT神奈川芸術劇場
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製作 | 合同会社地点 |
共同製作 | KYOTO EXPERIMENT /ロームシアター京都、KAAT神奈川芸術劇場 |
協力 | アンスティチュ・フランセ関西、IAMAS(情報科学芸術大学院大学) |
助成 |
【京都公演】平成27年度文化庁国際芸術交流支援事業 |
ふりかえれば地点は2005年に東京から京都に本拠地を移し、長らく元明倫小学校の京都芸術センターで稽古を重ねて作品を発表していました。2011年にKAAT神奈川芸術劇場に声をかけてもらって以来、毎年新作を発表してきました。2013年に自分たちのアトリエを北白川に構えてからは、レパートリー公演を毎月行うようになりました。そして、今回、ロームシアター京都のオープニング事業として、KAATとKYOTO EXPERIMENTの共同製作が、ついに実現したことになるわけです。2005年に劇団が京都に来たときは、右も左も(上ル下ルも)わからない状況でしたから、本当にたくさんの人たちの声援に支えられてきたことを実感します。そろそろ、みなさん三浦は何かを企んでこんなことを言っているのではないかと、むずむずしてきたことでしょう。
私は何が言いたいのか。京都に来て10年以上かかってようやく現代演劇が普通に上演されるまでに至ったと言いたい。つまり、ロームシアターにせよKAATにせよ公共劇場が、「普通」ではない演目を、普通に上演しているということです。今日、客席に座っているあなたは、もちろん今日の演劇が普通ではないとそれなりに予感していると思います。むしろ、難しいんだろうな、と不安をお持ちかもしれませんね。大丈夫です、その不安は正解です。難しいです。でも仕方がありません。公共劇場がこれを普通に何の問題もなく上演しているのですから、今日の演劇は普通なのです。大丈夫です、普通に難しいだけです。普通にオリンピック反対なだけです。普通に戦争反対なだけです。普通にキリスト教遠いだけです。繰り返します。今日の演劇は普通なのです。大丈夫です。普通に、オリンピック反対と言うのも政治的過ぎるから演劇とは関係ないと思いたいだけです。普通に、戦争法案と呼ばれる安全保障関連法案が国会を通過したことは演劇とは関係ないと思いたいだけです。普通に、キリスト教とヨーロッパの歴史は知らないふりをした方が日本人として素朴で、イスラム教も含めて一神教の危うさを演劇を通してわざわざ想像するのもちょっとしんどいと、われわれとしては天皇制を棚にあげておきたいだけです。これがイェリネク演劇です。今世紀最大の劇作家は、時間も地理的距離も軽々と超えて、客席にいるわたしに問いかけます。あなたはそれを受け止めなければならないようです。わたしと一緒に。これが現代演劇です。
ざまぁみろとパパが笑っています。ママが嘆いています。告白します。わたしは、大人になった今でも、父母のことをパパママと呼びます。祖父が敬虔なキリスト教徒だったものですから、小さなころ教会に遊びに行って賛美歌をちょくちょく聞いていました。その影響で私の親類は皆、父母をパパママと呼ぶ、のかもしれません。別に私に信仰心があるわけではありません。イェリネクの父親はユダヤ系でしたが、ホロコーストを免れ、晩年は精神病院で死んだようです。そのことをモチーフにしてイェリネクは『スポーツ劇』を書きました。個人的なパパママが、人類のパパママを含むのでしょうか。ちなみにわたしのパパは今年、死にました。さびしいですが、それをみなさんに言ったところで、申し訳なく思います。イェリネクはそりゃ並外れた人ですから、自分のパパをきちんと昇天させます。音楽監督の三輪さんは、〈死した「神」についての絶望をめぐる「奉納」としての劇〉を見ようと言いました。日本人にとってのパパママは誰でしょうか? そもそも日本人がパパママと口にするとき、その背景には西洋化・近代化への憧れが拭いきれないものとしてついてきます。それは世界中で起こっていることで、もはや当のヨーロッパですらその焦げ付きから逃れられない状況です。イェリネクはそこを突きます。イェリネクが普遍性を持つのは、いやこの際あえて「普通なのは」と言いましょうか、それは、彼女が日本人であるわたしのパパママのことを含んで書いてしまうからです。ここまできて、わたしは、ようやくこの演劇が普通でありわたしたちの小さな物語なのだと言えるわけです。大丈夫です。難しいです。わたしがあなたの家族を思うことが、難しいのと同じように。長々と話してしまいました。