作品概要 『忘れる日本人』に引き続き、震災後の日本人の姿を描く地点×松原俊太郎第4弾。かつてあった美しい山の隣に放射性廃棄物の山ができたという戯曲の設定を空間に落とし込んだ黒光りする急斜面の舞台で、汚染された土地で暮らす家族をなまはげをモチーフにして演じた。叫ぶことを怠けてはいけない、という信念のもとおくる新しい〈家庭劇〉とも言える本作は、松原俊太郎の第63回岸田國士戯曲賞受賞作となった。

 

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撮影:松見拓也

 

 

         

2018  
日程・会場
2018.6.6-16 KAAT神奈川芸術劇場 中スタジオ
 
松原俊太郎
演出 三浦基
音楽 空間現代
出演
安部聡子
石田大
小河原康二
窪田史恵
小林洋平
田中祐気

秋本ふせん(上演時・麻上しおり)
スタッフ
美術:杉山至
衣裳:コレット・ウシャール
衣裳製作:清川敦子
照明:横原由祐
音響:徳久礼子(KAAT神奈川芸術劇場)
舞台監督:藤田有紀彦
プロダクション・マネージャー:山本園子(KAAT神奈川芸術劇場)
技術監督:堀内真人(KAAT神奈川芸術劇場)
宣伝美術:松本久木
制作:千葉乃梨子
(KAAT神奈川芸術劇場)、田嶋結菜
主催 KAAT神奈川芸術劇場
助成 平成30年度文化庁劇場・音楽堂等活性化事業

 

演劇って難しいな、と松原戯曲をやっているとつくづく思います。私の演出の場合、演技上のルールができないと一歩たりとも歩けないのはいつものことですが、殊にこの作家の日本語を扱っているとなかなか前に進めない。何が問題かということを見落としがちになるからかもしれません。それは、同時代の日本人の書いた日本語によるテキストがわからないわけがないという私の過信なのかと疑ってみますが、実はそうでもない。誰の立場でモノを言うのかということを演劇は常に問うている。その立場が明確であればあるほど、当然、その劇作は古典的なものへと後退してゆく。今さら王様の苦悩をどう聞いたらいいのかなんて、私も観客も興味なし。一方でホームレスのつぶやきだったらと考えると、これも説教くさい気がして聞きたくない。これが現代に生きる私のごく普通の感覚だとすると、じゃあ今さら演劇で何を見る必要があるのかと思っているところに、「おかえり」なんて台詞が飛び込んでくるのが、今回の『山山』でした。誰が誰にこんなことを言えるのか? 妻が夫に? 母が息子に? 妹が兄に? 家族なんて今さら立場になり得るのだろうか、と思ってしまう私の感覚はごく普通なはずだ。だから「おかえり」と誰が言えるものかと悪意を持って台詞を眺める。「わたしは鬼ではありません」ちゃんとあった。立場否定。相対的な「わたし」の流転がそこかしこに生じる曖昧な登場人物たちは、確かに私たちの生きる今の社会では普通なのだろう。しかし、繰り返すが、誰の立場でモノを言うのかということを演劇は常に問うている。ということで、完全に演出のねつ造ですが、今回の登場人物は鬼とします。鬼の立場からモノ申します。鬼は神ではありませんし、人間でもありません。鬼は鬼です。一応、なまはげも調べました。よく考えれば、あの行事では家族側は家族を演じているわけです。地点の鬼たちは群れて生息する傾向があることが判明しました。まるで家族のように。いや、やっぱり家族なんて通用しません。あくまで鬼です。今日は鬼の言い分をどうぞ聞いてみてください。
 
三浦基

出典:当日パンフレット