モスクワ公演の劇評が届きました。その2

モスクワの中の『地点(存在する場所)』
ドミトリー・ホヴァンスキー

型の崩れた黒いコートを着て、馬鹿でかい靴を履いた男がゆっくりと円を描くように歩いている。完全なる静寂のなか、彼の靴音だけが響く。ひと回り、ふた回り、五度回り…。しだいに回数がわからなくなる、いや、正確には数えるのをやめてしまう。というのも、彼の動きそのもが悩ましく迫ってきて、自分がメイエルホリド・センターに劇団「地点」の『ワーニャ伯父さん』を見に来たただの観客にすぎない、ということを忘れさせるからだ(「地点」とは、日本語で「存在する場所」を意味する)。

劇団「地点」は日本でもっとも有名な劇団のひとつであり、演出家三浦基は複雑で哲学的なテクストを素材に選ぶことも多い。たとえばアントナン・アルトーや日本の劇作家であり演出家であった太田省吾の戯曲などである。モスクワでは『ワーニャ伯父さん』と『桜の園』のチェーホフ2作品を上演した。最近の演出家の多くが、これら世界的に有名な戯曲を上演するにあたって、ただただ先人たちの試みを否定し、これまでやったことのない奇抜な方法を見せ付けてやりたいという思いだけにとらわれていることは、もはや秘密でもなんでもない。三浦基はもちろんそんな仲間に入るような演出家ではないし、少なくとも、彼の演出を古典的だということはできない。演出家は、原作のテクストを自由かつ大胆に扱っている。単に登場人物のせりふを入れ替えただけではない。演出家自身にとって、また今日の日本が置かれている状況にとって、とりわけ重要なものを戯曲のなかから見つけ出すために、多くの登場人物を削除してしまった。

『ワーニャ伯父さん』は次のように始まる。観客の眼前には砂でできた島があり、その大部分を占めるようにグランドピアノが置かれている。ピアノの上にはソーニャ(安部聡子)とイヴァン・ペトローヴィチ・ヴォイニツキー(大庭裕介)が凍りついたようにじっとしている。彼らの客であるエレーナ・アンドレーエヴナ(谷弘恵)とセレブリャコフ教授(小林洋平)が島の上に並んで座っている。芝居は、終始このまま、ほぼ動きなく進行する。

唯一活動的な登場人物がアーストロフ(石田大)である。彼こそが黒いコートの謎めいた人物であり、その足音が芝居の冒頭、この奇妙な見慣れない世界に観客を巻き込んでいくのである。意外なことに、アーストロフがこの芝居を動かしていく力となるのだ。他の登場人物と対照的に「仕事をしている」この人物が(芝居の間中、舞台の隅でじっと座ったまま本を読んでいるマリヤ・ヴァシリエヴナ・ヴォイニツカヤ(窪田史恵)だけは例外であろうか)。彼の仕事は医師としての診療と、もちろん森林や自然保護の仕事である。それに真逆の効果を与えるかのように、美術の杉山至は、もうずっと前から音など発したこともないセレブリャコフの屋敷のピアノに干からびた草が突き出している情景を作り出した。怠惰と無関心さに家族のみなが浸されていてしまっているこの世界では、自然は死んでしまっているのだ。ヴォイニツキーがセレブリャコフをピストルで撃つシーンの直前まで、すべてのコミュニケーションはピアノの上でだけ行われる(そのシーンの直前には、両者はピアノの上の場所をめぐってシンボリックに争ってみせる)。しかしながらこの場面が芝居の山場ではない。深く印象に残るシーンはアーストロフが語るこの地方の歴史であり、破壊されゆく森林の話なのである。話の最中、登場人物たちの頭上の、奇妙な、なにやら割れた鏡を思わせるような丸い構造物に地球の映像や漂う雲が映し出される。そこで観客は、身の回りの地域や小さな庭に関する悩みなんかよりも、アスロトフの言葉のなかにこそ、とても重要な何かがあるのだ、ということを理解しはじめるのだ。

幕切れに、ソーニャがかの有名なモノローグを発するわけだが、観客は思わず耳を疑う。というのも、突然、それがロシア語で(!)聞こえてくるからだ。「私たちは天使の声を聞く・・・」ソーニャ役の女優が、独特の抑揚をつけながら、言葉のひとつひとつを刻みつけるように、脇に横たわるヴォイニツキーの背中を足で蹴る。それはまるで観客の無関心を蹴りつけているかのようでもある。

二つ目の作品『桜の園』もおなじようなスタイルの演出になっている。ラネーフスカヤ(安部聡子)、アーニャ(窪田史恵)、ワーリャ(谷弘恵)とガーエフ(石田大)の四名の登場人物は芝居の間中、ほとんど動かない。山積みにされた木枠の中に埋もれるように座っていたり、立ったりしている。『ワーニャ伯父さん』同様、舞台装置はシンプルさが際立ち、目を引く。砂と大量のコインが一面に撒かれた床には、古びた窓枠や額縁がふたつに山と詰まれている。周囲をぐるりと囲むように細長いスクリーンが置かれ、チェーホフの時代の古い写真が映し出される。本作品では、演出家はダイナミックな動きと静止とのコントラストを強調している。ロパーヒン(小林洋平)の激しい動きこそが、「家族たち」の完全なる静止状態の醸し出す異常な雰囲気を、強烈に生み出しているのである(なぜだか、この「家族たち」という言葉、大文字で強調して書きたくなる。[訳注:訳では「」でくくった])。行動的で決断力のあるロパーヒンの桜の園救済計画が背景に描かれることで、ガーエフ、ラネーフスカヤ、アーニャ、そしてヴァーリャの無為さが際立つのである。

演出家は芝居にいくつかのレベルを同時につくり、重層的に構築している。第一のレベルは、それは、もっともわかりやすいものだが、「家族たち」とロパーヒンとペーチャ・トロフィーモフ(大庭裕介)との奇妙な三角関係の対立である。この観点から見れば、「家族たち」はまるで一人のペルソナであるかのように、一緒に額縁の枠の中に、一家族の肖像の中に納まってしまう一体性を持って描かれる(ただし、アーニャは例外で、他の家族より上位に位置することを好んでいる)。ロパーヒンが手に窓枠を持ちながら、この奇妙な家族の周囲をぐるぐると歩き回っているのも理由のないことではない。まるで彼らの屋敷の境界線、彼らがその中に凝固してしまった屋敷、彼らの「存在する場所(地点)」の輪郭線を描いているかのうようだ。

ロパーヒンはつねにこの地点に変化を加えよう、その場所を動かそうとする。彼は他の登場人物とはまったく異なった時代の規範の中に生きている。超高速の鉄道、すべてを売り買いの可能性で測るなど、なにごとも素早いことが良いとされる時代である。

舞台の壁には、緑広がる平原を走る列車が映るかと思えば、やはり緑豊かで居心地よさそうな一戸建てのマイホーム群が映し出される。この居心地のよさやアーストロフのせりふを思い起こさせるような自然との共存状態にこそ、進歩発展から取り残され、代々受け継がれてきた伝統や家族の、そして子供の頃の記憶を失うまいとする人々の力はあるのだ。

ロパーヒンが進歩発展するためのエンジンであるとするならば、ペーチャ・トロフィーモフは(人々が夢見る)「明るい未来」の理論家だといえるだろう。壁に映し出される映像は彼のせりふを支持するように見事に呼応している。彼が「真実をまともに見ることです」と言うと、映像にはすぐに機関車の力強く動く部分が映し出され、鉄が擦れあう音さえも聞こえるかのようだ。ロパーヒンとペーチャの対立は、実践家と理論家との間で永遠に起き続ける対立である。「行き着けるかね?」と尋ねられ、ペーチャは「行き着けるとも。さもなけりゃ、行き着く先をひとに教えてやる」と答える。しかし、間をおかず、すぐにペーチャの心配げな声が鳴り響く。「しかし、オーヴァーシューズがないんだ!」

上記のことはこの芝居の表面的な部分についての見方でしかない。この芝居にはもっと深い層が隠されている。微動だにしないラネーフスカヤとガーエフ、アーニャ、ヴァーリャをもっとじっくり観察するならば、彼らも実は、それぞれ非常に個性的な性格を有していることがわかるだろう。これらの特徴はほとんど気づかないような動きやポーズ、せりふを話すときのイントネーションに隠されている。それはせりふのひとつひとつに隠されているのだが、日本語を知らない観客は、わからない言葉が生み出す音楽に注意深く耳を傾けるしかない。この手法によって、演出家は微妙な対立状況を繊細かつ的確に作り出している。本棚に向かってとうとうと述べるかの有名なガーエフのモノローグは驚くほど情熱的に、ほとんど宗教儀式の一端であるかのように語られる。ところがそれと対照的に、ガーエフのモノローグの間、ロパーヒンは一心不乱に目に見えないハエを捕まえようとすることで、ガーエフへの軽蔑感を強調する。ガーエフが、自分は銀行で働くことになりそうだ、と実現しそうもない話をしたり、ロパーヒンがヴァーリャとの結婚を約束したりする場面で、彼らはせりふを言いながら、嘲笑するような笑い方をする、などなど。

せりふのイントネーションや微妙な細部と、俳優たちがほとんど動かないでじっと固まっているということとがあわさって、バラバラに砕かれたテクストの価値や重要性をかえって見事に印象づけている。壁に映写される原作のロシア語テクストが、『ワーニャ伯父さん』のときのロシア語のせりふと同様、まるでもう一人の登場人物のように感じられてくるのだ。チェーホフの言葉がなにか新しいものと絡みつき、チェーホフの戯曲を隅々までよく知っているはずのロシアの観客もこれまで見たことのないような形を作り出している。

上演された2作品は、見事に互いを補い合っていて、まるで完全にひとつの作品であるかのような印象を受ける。観客は、信じがたいほど急速に進められた工業化と、太古以来守り伝えられてきた伝統という二つの極に100年以上もの間引き裂かれてきた日本の姿を目にする。この芝居を見ていると、日本にとって、『桜の園』は日本固有の桜の花の園であり、次第に無関心や不注意から過去へと失われていってしまう伝統のことではないか、という気がしてならない。ラネーフスカヤは、「だってわたしは、ここで生れたんだし、お父さんもお母さんも、お祖父さんも、ここに住んでいたんですもの。どうしても売らなければいけないのなら、いっそこのわたしも、庭と一緒に売ってちょうだい。」と言うしかなかったのと同じように。ソーニャのモノローグを聞いたときに感じた鈍い痛みのような感覚も、競売で奪われそうになった木の窓枠にしがみつく「家族たち」の人々の胸を打つ思いも、ここから生まれてくるのだろう。

芝居のあと、私は家へと歩いて帰った。アーストロフのようにぐるぐる回るのではなく、まっすぐ歩みを進めて。この二つの作品の形式はロシアの観客にとっては初めての体験であったが、その本質はもちろん近しく、理解できる。自然、進歩、そして無関心という問題は私たちにとっても切実なものだからである。

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『かもめ』和室バージョン再演決定!!

昨年のKYOTO EXPERIMENTで好評を博した『かもめ』和室バージョンが、この度開催される「舞台芸術AIRミーティング@TPAM&ショーケースin京都」に参加することになりました。

■公演日時:
2012年
2月20日(月)19:30
2月21日(火)14:00/20:30
2月22日(水)17:30
各回定員24名

■会場:京都芸術センター 和室「明倫」

■チケット料金:
前売2,000 円 当日500円増
※他プログラムとのセット券あり。詳細はこちら

■チケット予約:http://air-kyoto.com/ticket/

撮影: 阿部綾子

みなさまのご来場、お待ちしております!

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モスクワ公演の劇評が届きました

去る2月にモスクワで上演された『ワーニャ伯父さん』『桜の園』の劇評とその邦訳が、長い時間と距離を経て、届きました。クリスマス記念に全文掲載します。モスクワは、今頃、雪景色でしょう。

過去は存在しない……
ナターリヤ・スタロセリスカヤ

ロシアの観客にとって、日本のいにしえの都・京都から来演した劇団「地点」は新しく知己を得た友人のようなものである。同劇団を主宰する、若き演出家三浦基も同様である。「地点」はこの2月、チェーホフの『ワーニャ伯父さん』と『桜の園』をモスクワのメイエルホリド記念センターの舞台で上演した。プレス・リリースによれば、これらの作品は 〈チェーホフ四大戯曲連続上演〉 という劇団の上演プロジェクトの一部とのことだ。この劇団による偉大なチェーホフ戯曲の解釈は、ロシアの観客にとって極めて異例で意外性に富んだ独創的なもので、あらゆる演劇的な手法にすっかり慣れきってしまったと思っていた人々をして、単に興味を起こさせ得たのみならず、多くの点ですっかり魅了してしまった。

なぜそのようなことが起こったのか?日本の劇団は誰もがそらんじるほど有名なこれらの戯曲を深く独創的に読みこむことで、いったい何を、それほどまでに特別なものとして私たちに提起したのだろうか?

現代日本およびロシアの演劇について詳しい楯岡求美(神戸大学准教授、芸術学博士)の言によれば、三浦基は何よりも現代人の疎外された状況に心を砕いている。「彼らは自らの感情を表現し伝えることの不可能性に苦しんでいる。なぜなら、言葉はかなり前に力を失ってしまっているからだ。愛したい、愛されたい、そうしたい、そうされたい、……では、『かつてはどうしたらよいのか、そのやり方が分かっていた』のだとしたら、なにを話すべきなのか、なにをなすべきなのか。しかしすでにそれはすべて『忘れられてしまった、誰も覚えていない』のだ、と、たとえ皆に忘れられて置き去りにされたにせよ、永遠不滅のフィールスは言う」(プログラムによる)。

まさにこのことこそが、質の高いヨーロッパの演劇を学んだこともある、この日本人の演出家の美学において、われわれを惹きつけるものなのだろう(三浦基は2年間、フランスの様々な劇場で学び、活動した経験がある)。つまり、破壊された時代、引き裂かれた関係、暴力的に断絶された伝統への感覚である。何しろ、現代を生きる私たちを、アントン・パーヴィロヴィチ・チェーホフから隔てているのは、単に百年という時間だけではない。革命や、内戦、1937年の血の粛清、第二次大戦、あまりにも早く残忍な冷戦にとって替わられてしまった「雪解け」の時代、ロシアの戦車に蹂躙されたブタペストやプラハ、「ハンカチを口に突っ込むまれた」数十年にわたる生活(ゲルツェンが19世紀半ばの帝政ロシアの現実を評したのと同じような)、沼のようにねばついて、人々の生気を吸い取ってしまった停滞の時代、20世紀の80年代のおぼろげな希望とそれへの失望に満ちた1990年代、到来した新世紀の最初の十年間にあふれる苦みと黙示録的予言…こういった悲劇的で激動に満ちみちた一世紀が、我々をチェーホフから隔てている・・・。

理想と道徳的価値の喪失、文字通りの意味での言葉の喪失など、ここに列挙されたものは、いまやごく当然で自然な帰結であるように思われる。発話は発音不明瞭となり、言葉は摩耗し、本来的的な意味を失ってしまった。このような事態を、私たちの社会とはまったく違った世界からやって来た若い日本の演出家は、はたしてどのような未知の方法で感じとっているのだろうか?

なるほど、目の前に展開するのはこれまでとはまったく違ったチェーホフであり、私たちがずっと大切にしてきたイメージにそったチェーホフは現れない。なにやらまったく新しい、徹底的に不明瞭なイメージ、これからまだよくよく観察し、そのイメージに慣れ、理解するよう努めなければならないものとして存在している。認識すべき第一のことは、仮に言葉を含むあらゆるものが、意味のみならずその魔力も例外なく失っているのだとしたら、芝居を見るということが、私たちにどんな変化をもたらすのか、ということである。

「地点」は日本語で「存在している場所」を意味する。チェーホフとの関連においていえば、いったいどこで、つまりどの「地点」でわたしたちが、今日、存在しているのかについて、私たちははっきりと悟るのである。つまり、過去が私たちにとって自らの権威を失ってしまっているということ、魅力や、詩情、伝統や道徳的柱としての力を失った、まさにそういう地点に私たちは存在しているのだ、ということである。「過ぎ去った日の思い出もない」と、ワーニャ伯父さんことイヴァン・ペトローヴィチ・ヴォイニーツキー(大庭裕介)が劇中で何度も繰り返す。ヴォイニーツキーはショーペンハウアーにも、ドストエフスキーにもなれたのに、死んだ妹の土地の管理人以外の何者にもならなかった。管理人としての自分の義務を几帳面に実行する者でしかない。彼は手ずから小麦粉を売り、そろばんを弾き、一コペイカまで節約している。すべてはペテルブルグのセレブリャコーフ教授(小林洋平)に送るためなのだ。

芝居が始まるまでの最初の数分間、観客が客席につく時から、俳優たちは皆舞台上におり、しのぎ難いとげとげしい雰囲気が生じていた——中央には細かな白い砂が積まれ、その上に、鍵盤からひからびた細い草の茎が生えているグランドピアノが置かれ、ピアノの上にはソーニャ(安部聡子)とワーニャ伯父さんがいる。ピアノの右手にセレブリャコーフとエレーナ・アンドレーエヴナ(谷弘恵)が座り、舞台奥の、本の小さな山が積み重ねられた小さな机の後ろ、居心地の良いランプのそばにマリーナ・ヴァシーリエヴナ(窪田史恵)が寄り添い、そしてこの絵のように美しく、ぴたりと静止した人々の周囲を、規則正しく、ばかでかい、ほとんど道化じみた靴で音を立てながら、医師のアーストロフ(石田大)が歩いている。そしてかなり長い間ずっと何も起こらない——ただ歩みの立てる音だけが静けさを乱し、凝固した人影は、あたかもろう人形のように思われる。

ソーニャとワーニャの頭の上には、優雅なシャンデリアにも、地球の形にも見えるものがあって、それが時折、過去や現在の郡地図にも、アフリカの地図にもなる。アーストロフがそれについて話しをしたりする。いや、むしろそれは、私たちみなが、意思や望みに関わらず属している宇宙なのだろう。いかなる過去もないのだから。あるのは、貧弱な現在ばかり。言葉の意味が失われ、ということは、存在の意味も失われてしまった貧弱な現在だけである。

言葉は、あるいは絶え間なく繰り返される不明瞭な早口ことばとして、あるいはヒステリックなすすり泣きとなって、登場人物から吐き出される。チェーホフのテクストは演出家によって、必ずしも理解しやすくはない論理に基づいて再構成されてはいるが、しかし、「チェーホフの原テクストのまま」留まっている。そんなものはないんだ、という過去についてのヴォイニーツキーの台詞を除き、すべての言葉は劇作家チェーホフのものである。しかし人生のドラマツルギーは、完全に異なった構造に組みかえられている。登場人物たちは静かにじっとしていて、あまり動かないし、せりふも無理やり絞りだされるようだったり、生気を失った様子だったりで危機的状況が先鋭化されているため、まったく違った印象を受けるのだ。それ故、ソーニャ役の女優によってロシア語で発音される終幕のモノローグは、ゆっくりとして、自信がなく、あたかも言葉が今ここで生み出されているかのようなのだが、かえって突き刺すような鋭さを持っているもののように思われる。ソーニャは、手足を伸ばしてピアノの上に横になったワーニャ伯父さんの背中を足で蹴りながら、苦しみについて、ダイヤモンドの空について、天使について語る。あたかも私たちの見ている前で、言葉が持っていたはずの原初的な意味を取り返そうとするかのようだ。なにものにも、誰にも呼びかけることなく、ただ各々の言葉の味覚や、臭いや、思い出を味わおうと試みながら。——まさかほんとうに過去はもはや存在しないのだろうか?それともこれは単にワーニャおじさんの残酷な思いつきであって、そうした思いつきをしたがために、ソーニャは、芝居が始まるときに医師のアーストロフが歩いていたのと同じようにこんなにも規則正しく、また乱暴に、足で背中を蹴るのだろうか?ここでは言葉は起こっている出来事に完全に反している。——ソーニャの鋭く病的な抑揚は、彼女がやっていること、未来について語っているということを、あたかも「見るな」といっているかのようなのである。

未来は、おそらく、存在しないし、存在しえないものなのだろう…

『桜の園』でも、演出家の特有のやり方は、『ワーニャ伯父さん』同様、残酷かつ絶望的であって、舞台は動きがなく、俳優たちの演技も同様である。破壊されたせりふの抑揚、過去から切り離された感覚、まるで大気の中にばら撒かれたかのような絶望感も繰り返されている。『桜の園』はラネーフスカヤ(安部聡子)のせりふで終わる。「亡くなったお母さまは、この部屋を歩くのがお好きだったわ」。しかし母も、部屋も、家も、桜の園も存在はしていないのだ。郡の中でも比類ないといわれた美しい桜の園も存在しない。窓枠や絵画・写真が入っていただろう額縁の枠が山と詰まれている以外、何もない。登場人物たちがその枠の上に座っていて、彼らは時折、その枠を顔のそばへ持っていくので、観客には彼らの姿が写真のように見える(舞台美術家・杉山至が「地点」の両方の公演を手掛けた)。

この劇で動くのは、ロパーヒン(小林洋平)とペーチャ・トロフィーモフ(大庭裕介)の二人の人物だけであり、残りの人物たちは決められた舞台の立ち位置から動けなくなってしまったかのようである。演出家は、ロパーヒンとトロフィーモフに対して、『ワーニャ伯父さん』の舞台装置同様、舞台中央に円形の「存在している場所」を作っている砂地の境界線を越えて移動する権利を与えているが、彼らの動きもやはり幾何学的に決められた範囲内にとどめられている。つまり、この生活というもの線は、いったん引かれてしまったら最後、永遠に抜け出すことはできないのであり、まるで舞台の上部に設置された映像を映し出す画面が越えられない壁となっているかのようである。画面はあたかも列車の窓のように外側の走り去る風景を映し出す。画面には走る列車が映り、窓の向こう側には何か全く別世界の現実が存在しているかのようである…。

しかし『桜の園』には、もう一人、他の登場人物と対等な権利をもつ登場人物が存在している。おもいがけず強力に情緒的影響を及ぼす存在、おぼろげな不安感を強く掻き立てる存在である。それは、アラム・ハチャトゥリアンがレールモントフの『仮面舞踏会』のために書いたワルツである。このワルツはチェーホフの第三幕で鳴り響くだけではない。もはや存在しないにもかかわらず、(『ワーニャ伯父さん』の登場人物たちの場合とは違って)過去こそがますますいっそう登場人物を支配しているのだ、という感覚を生み出している。たしかに、彼らも同じように言葉なき、伝統の失われた「神なき、霊感なき」時代にはまり込んでいる。しかし何やら目に見えない糸のようなものでもって、彼らはますますいっそう、ここにかつてあったものへと結び付けられている。三浦基はまさに、独自のライトモチーフのこうした選択によって、自らの二つの作品を互いにはっきりと異なったものにしているのである。なるほど、過去は『ワーニャ伯父さん』にも『桜の園』にも存在しないのだが、かつては過去が存在していたのであり、それからはどこへも逃げることはできない。過去は、人間の内に無意識的な不安や、想像上の痛みといった、もはや存在しないはずのあらゆる感情と感覚とを呼び覚ましながら、遺伝子レベルで保存されているのである。

劇団「地点」は私たちに、これまでにないチェーホフ解釈を提示している。私が思うに、このような見方は理にかなっているし、興味深い。なぜなら私たちは、時として刺激的であり、時として堪えがたいような、チェーホフの時代とはまったく異なる時代に存在しているからである。多くの概念が変化し、価値観も変わった。ポスト・ポストモダニズム派の演劇が次第に、大なり小なりの成功することで、私たちは彼らの美学に慣らされてきてしまっている。とはいえ、この新しい美学の内に現代の問題に即した重要な思想が貫かれているならば、多くの物は許容され、受け入れられることだろう。

いにしえの都・京都からやってきた劇団「地点」(「存在している場所」)は、今の時代を生きている。どのような時代であるにせよ。周知のように、「時代は選べない/その時代に生まれ、死ぬほかない」(クシネル)のであり、過去を取り戻したいとどれほど思ったところで、過去は存在しないのだ、ということを明確に理解するほかないのである・・・。

掲載誌:「イニエ・ベレガー(向こう岸)」 原文はこちら

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『トカトントンと』特設サイトOPENのお知らせ!

地点とKAAT神奈川芸術劇場との共同製作〈NIPPON文学シリーズ〉の特設サイトがオープンしました。今年度の新作、太宰治原作『トカトントンと』の詳細情報や、昨年度上演された『Kappa/或小説』のアーカイブも充実しています。来年2月の本番までの間、特集ページやブログなどで、創作過程や作品の内容についての情報をお届けしていきますので、ときどき覗きにいらしてください!

地点×KAAT神奈川芸術劇場特設サイト http://chiten-kaat.net/

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地点最新作は『トカトントンと』

今年3月の『Kappa/或小説』(原作: 芥川龍之介)に引き続き、KAAT神奈川芸術劇場との共同製作となる〈NIPPON文学シリーズ〉として、『トカトントンと』(原作: 太宰治)を上演いたします。チェーホフに長年取り組み、《近代》についてこれまで一貫して考えて来た地点と三浦基が、《戦後》という切り口から日本の近現代を問う最新作です。

何か物事に感激し奮い立とうとすると、どこからともなく聞こえてくる「トカトントン」。この音を聞いた途端、なにもかもがどうでもよくなってくる——。太宰治のユーモア漂う傑作短編に並行して展開するのは、恋という名の革命に胸を焦がす女性のモノローグ。太宰治の代表的作品『斜陽』の物語が交錯します。

2012年
2月9日(木) 19:30 ☆プレビュー公演
2月10日(金) 19:30
2月11日(土) 15:00
2月12日(日) 15:00
2月13日(月) 19:30
2月14日(火) 15:00

会場:KAAT神奈川芸術劇場大スタジオ
料金:プレビュー公演 2,000円
一般 3,500円 ほか
チケット発売日:2011年12月3日(土)

詳細は、劇場Web http://www.kaat.jp/pf/chiten-tttt.html をご覧下さい。

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