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マヤコフスキー研究会 第2回
2015年6月11日(木)19:30-22:00
講師:大島幹雄(作家・サーカスプロモーター)

サーカス学~道化師ラザレンコと『ミステリヤ・ブッフ』
 

大島:大島です。僕は今サーカスを生業にして30年以上経つんですけど、主にロシア、旧ソ連のサーカスのアーティストを日本に紹介する仕事をしています。もともとは大学でメイエルホリドを研究していました。それがなぜか、こんなやくざな仕事に手を染めるようになってしまったんですけれども、今回『ミステリヤ・ブッフ』をやるというお話を聞いて、みなさんが今度どういう意図で上演されるのか、とても興味があります。
今日お話しするのは、最近僕はこの『⟨サーカス学⟩誕生―曲芸・クラウン・動物芸の文化誌』という本を書いたんですが、その中に「ロシア・アヴァンギャルドとサーカス」という項目がありまして、今日はここに沿って最初お話させていただいて、映像を見ていただきながら、皆さんからの質問に答えていくという流れにさせていただきたいです。

 僕が最初の著作『サーカスと革命』という本を書いたときは、「アヴァンギャルド」と「サーカス」というのが、革命直後、密接な関係を持ってやられていたということに注目しました。もうひとつのテーマは「ラザレンコ」という道化師。彼にすごく惹かれて。サーカスやっていたときに彼を知って、この名前はアヴァンギャルドやっているときに聞いたことがあるなと思ったわけです。アヴァンギャルドとサーカスを結ぶ回路がラザレンコを通じて見つかったということがあって、それで夢中になっていろいろ調べて、アヴァンギャルドとラザレンコの一生みたいなものを追っていったんです。調べていくと、革命直後の祝祭的な雰囲気の中で、いかにサーカスというものが若い演劇人にとって魅力的な要素だったのかということがものすごくよく分かるわけです。たとえば、セルゲイ・ラドロフという人が「民衆喜劇座」というのを作って、実際のサーカス芸人を使って、どんどん芝居を作っていったり、エイゼンシュテインが『賢人』という芝居を作ってですね、逆に俳優達がサーカス芸をがちがちにやって実際にサーカス仕立ての芝居を作ったりとか。
 その中で一番象徴的だったのが、まさに『ミステリヤ・ブッフ』の再演ですね。1918年の初演ではなくて、1921年に上演された方です。それはもうマヤコフスキーとメイエルホリドにプラス、ヴィターリィ・ラザレンコが加わったということで、非常に意義が大きかったと思うのですが。ではなぜサーカスとアヴァンギャルドが密接につながっていったのかというところを考えるとですね。

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 このアナトリー・ルナチャルスキーという人がですね、この人は時の文化大臣みたいな方で、教育的な立場で指導していった人なんですけど、彼が一番ロシア・アヴァンギャルドに理解を示していて、彼がサーカスに関しては力を入れてですね、サーカスを見習えと言っていたことがひとつ背景にはあります。もうひとつは、革命前から、メイエルホリドとかマヤコフスキー、いわゆる未来派の連中がサーカス的な要素を取り入れたことを体現していたということがありますね。
 メイエルホリドは革命前に、ドクター・ダベルトゥトという名前で、いわゆる小劇場、スタジオ劇みたいなものをやっていたわけです。その中でコメディア・デラルテですとか、サーカスとか、そういった要素をかなり研究していたんです。実際メイエルホリドは小さいときからサーカスのことが好きで、これはエイゼンシュテインも同じなんですけれども、かなり深いところでサーカスというものを、付け焼刃ではなく、心底サーカス的なものをやっていたと。マヤコフスキーたちの一種トリッキーな感じというのは、まさにサーカスの道化をやっていたと思うんです。だからマヤコフスキーにしろ、メイエルホリドにしろ、革命だから、民衆も求めているから、祝祭的なものをということだけではなく、革命前から非常にサーカス的なものについてのたくわえがあったということが言えるのではないかと思います。

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 その中でも特に若い演出家だったのが、エイゼンシュテイン。
 これはエイゼンシュテインの『賢人』という芝居なんですけども。サーカスと演劇がくっついた時代、つまりモスクワではエイゼンシュテイン、サンクトペテルブルクではセルゲイ・ラドロフが中心になっていたと思うんですが、僕はこの時代で一番重要なサーカスと演劇の芝居はこの『賢人』だと思います。ひとつは方法論。たぶんエイゼンシュテインはこの芝居を作っているときに、後のモンタージュ映画につながっていく、大事な理論を発表しているんですね。それは「アトラクションのモンタージュ」ということを宣言したものです。いろいろな演劇的要素の中で、人に刺激を与えるものを抽出していって、どうやって人々の感覚を呼び起こすかということで、アトラクションという概念を打ち出して、それをどうやって観客に伝えていくかといったときに、単純に見せるんじゃなくてつないでいく、つまりモンタージュの理論を使っていく。後々の彼の映画作りの根本になったという意味でも『賢人』という演劇作品は大きな意味があると思うんです。
 もうひとつは、このセットを見てもらえればわかると思うんですけど、芝居じゃないですよね、完璧にサーカス。半円形の舞台で、ほとんどサーカス場にあるようなセットを作って散らばらせているわけですね。セルゲイ・ラドロフたちがやった、民衆喜劇座の芝居というのは、サーカスの芸人たちにサーカス的なトリックをやってもらったんですね。ここがまったく違うところで、エイゼンシュテインは俳優たちにサーカス劇をやらせたわけですね。実際にアレクサンドロフという主役をはった俳優さんは、坂綱といって、綱渡りの綱を傾斜をつけて張って、サーカスの芸人でも難しいようなことをやったわけです。さらに、これはパーチという芸なんですが、棒を支えてその棒の上に女性が上って逆立ちなんかをする芸も、後にエイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』に出演する俳優たちがやっていたわけです。もちろんサーカスの芸人がそれを教えているわけですけども、実際に俳優たちがそういうことをやって、しかもつくりがまさにサーカス的なつくりになっているということで、この『賢人』は重要な作品ではないかと思います。
エイゼンシュテインは子供のころからすごくサーカスとクラウンが大好きで、フェリーニと同じくらいクラウンに対しての思いというか、自分もかなり背が小さくて劣等感をもっていたということで、クラウンを演じることにすごく魅力を感じていた。まあそういう彼のクラウン、サーカスに対する自分の愛情を、彼自身も言っていますが、この作品で吐露することができたということです。ある意味エイゼンシュテインの演劇活動の出発点なんですけれども、サーカスに対する愛情をすべて吐露した作品であるとも言えるわけです。実はエイゼンシュテインというのはこの先もサーカスにつながっていく活動をしていくわけで、そういう意味でも出発点になる作品であると言えるわけです。

 

 

『賢人』より『グルーモフの日記』


 ひとつ、映像をみてみたいと思います。
 『賢人』という芝居の中で流された映画です。つまりエイゼンシュテインがはじめて作った映画でもあるんです。主人公を演じた人は、さきほどのアレクサンドロフ、綱渡りをした人なんですけれども、この映画が『賢人』という芝居の中に挿入されて上映されたわけですね。
 僕はこの1920年代前半のサーカスと演劇の中のつながりの中で、『賢人』が果たした意味というのは今後も研究されるべきじゃないかと思っているんです。まあ、なかなか作品を見れないということはあるんですけど、残っているのはこれくらいしかないんですが――まあ、彼の言っているアトラクション・モンタージュといわれるものと、他の若い芸術家・演劇人が作っていた作品なんかを平行して見ていくと、もう少しこの時代のアヴァンギャルドの連中とのつながりの根っこが見えてくるような気がしています。もちろん『ミステリヤ・ブッフ』もですけれども、この『賢人』については顕著かなと思っています。
 そういった華やかな部分のことを書いた本が『サーカスと革命』だったんですけど、今回こちら(『⟨サーカス学⟩誕生』)の本の中で紹介したのはその後、1930年代のことなんですね。つまり、スターリン体制が確立されて、どんどんアヴァンギャルドが退路を断たれてしまうみたいな時代に、サーカスがどんな意味を持ったのかということをこの本の中では書かせてもらいました。そのひとつの例としてあげているのは、『サーカス』という1938年に公開された映画で、先ほど綱渡りをしていた主役のグラーモフをやっていたアレクサンドロフという人が作った映画です。これはエイゼンシュテインの盟友であった人ですね。この映画はとんでもない大ヒットの映画になった。初日には2万人が映画館に集まったって言うくらい大変な評判だったそうです。中身なんですが、最後はスターリン万歳になってしまって、ちょっと悲しい映画なんですけど、それが1938年です。

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 もうひとつは皆さまがテーマとしている、マヤコフスキーですね。彼が作ったサーカスがこの『モスクワは燃えている』という彼の最後の作品になったもので、完全にサーカスのために作られた芝居です。1905年から1917年までの革命を叙事詩的に書いたもので、おそらく彼は詩でもこういうことを書かなかったはずです。詩で書けば、プロレタリアの連中からぼろくそ言われてしまっただろうし、逆に言うと逃げ場だったわけですね。この作品を発注してきたのはサーカスですから、あくまでもサーカス場で演じられるために作ったサーカス風の作品なので、彼に書ける精一杯のことを書いた作品だったのではないかと思います。そしてこれが、自殺なのか他殺なのかわかりませんが、彼が亡くなった1週間後に上演されたんですね。小笠原豊樹さんがマヤコフスキーが殺されたとしているのは、サーカスがこの作品をすごく気に入って、彼は既にこの次の作品の発注を受けていたという話なんですね。それを小笠原さんは、マヤコフスキーが殺されたんじゃないかというひとつの理由にしていますけども。
 僕にとってとても象徴的だったのは、このシーンなんです。一番上にいるのは皇帝なわけです。下にいるのは貧しい人たち。間にいるのは官僚だとかね、そういうマヤコフスキーから言わせたら、一種のアイロニーで、革命前はこういうヒエラルキーで成り立っていたでしょということをあえて表現をしているのは、現体制、スターリンに対する皮肉が入っているんじゃないかと思うんですけれども。さっき言った『サーカス』という映画にも、同じような場面があって、こちらは逆なんですけど、まるっきり。要するに、マヤコフスキーがここで揶揄したようなこととはまったく違って、まさに上にいる人に対する賛美・美化、あげ奉る感じで、映画では表現していたわけです。その対比というのがひとつ皮肉というかね、同じ時代にサーカスということを取り上げているのに、方やスターリン賛美、方や批判の立場、ひとつのアイロニーだなと私には思えたわけです。

 この時代に追い詰められていった人の中に、ロトチェンコという人がいます。この人はマヤコフスキーと一緒に活動をしていた人で、画家であり、写真家でありデザイナーであり、最近ではユニクロのTシャツにもなってデザイナーとしても見直されている人ですが、彼が1938年ですね、やはり同じような時代に、『ソ連の建築』という雑誌の中で「サーカス特集」をやるんですね。彼の撮影したサーカスの写真の特集なんですけれども、それで撮影した写真を今から見ていただきます。


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 これは1938年当時のソ連のサーカスの実際の写真を撮ったものです。実はロトチェンコってライカを使って「ラクロス」という撮影方法を生み出したんですね。つまり、近距離からかなり角度をつけて、大胆なカットを撮るという、こういったものを20年代に撮っていたんですけど、その写真と、このサーカスの写真の対比を見ていただきたいんです。「ラクロス」の手法を使えば、もっと大胆なカットが撮れる題材のはずなのに、全てフォトジェニックというか、ただ単に撮っているだけというか、大胆な構図がないんですよね。ゆるい感じがするんです。あのロトチェンコがなぜこんな写真を撮るのかというくらい、ゆるいと僕の目には見えたんですよね。

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「ラクロス」の手法で撮影されたロトチェンコによる写真

 なぜかというと、この時代ロトチェンコもかなり追い詰められていたわけです。「ラクロス」という手法もフォルマリズムだと批判を受けていて、彼も「レフ」とか、一番アヴァンギャルドな先鋭的な活動をやっていたのに、こういった風に逃げていた時期があるということなんですよね。ロトチェンコというのは、ある時点で絵筆を捨てた人なんです。もう絵は描かないといって、デザインのほうに走ったんです。マレーヴィチのように、かなり抽象画を追い詰めたところまでいっていた人なんですけども、このサーカスの写真を撮っていたころにまた絵筆を執りはじめていて、専ら描いていたのが、サーカスやクラウンなんですね。わかりづらいかもしれないんですけど、これほとんど自画像なんです。絵筆を持って帰った先が、クラウンに自分を投影した自画像なんですね。クラウンの持っている二重性みたいなところ、自分を押し込めているというところ、そのぎりぎりの表現がこれだったんじゃないかと思います。ロトチェンコ自身は、この絵画のほうはあまり外には出さなかったらしいですね。ですので、最近の研究で明らかになった話なんです。マヤコフスキーは追い詰められて『モスクワは燃えている』という作品でサーカスという場所に表現の活路を見出そうとしていたし、ロトチェンコは逆にこういう風にサーカスに逃げて行ったということが30年代のアヴァンギャルドの中にあったと思うんです。

 景気の悪い話ばかりで申し訳ないんで、ちょっと景気のよい話を。
 ラザレンコの貴重な映像をこれから見ていただこうかと思うんですけれども、これは1930年代に彼が芸能生活35周年かなんかを迎えたときのそのときの記念の映像です。ちょっと見てください。

 


 

 これ相当高い竹馬ですから。この時代だと木でしょ、相当なテクニックだと思いますよ。彼は跳躍技が得意だったので、それを実際やっている映像がこれですね。このときたぶん40くらいだったかと思います。この中にはタイーロフとかいたらしい。これがメイエルホリドですね。このとき本当に来たかどうかね。合成なのかな。かっこいいでしょ、本当にかっこいいんですよね。

楯岡:これは外でパレードしているんですよね。

大島:これはたぶん彼が若かりしころに撮ったパレードの映像ですね。でもよくこの時代のが残っていたなと、不思議ですけど。
ラザレンコは最後まで本当に活躍したんですね。マヤコフスキーが亡くなり、メイエルホリドが39年に殺され、それを見送って亡くなったわけですが、まさにアヴァンギャルドと一緒に活動して死んで行ったという気がしますね。
 アヴァンギャルドと政治の問題は、一言で言えないことが多いんですけど、ことにサーカスに関して言うと、アヴァンギャルドたちは、精神的に同じところにいたんじゃないかと、みんな可能性を感じていたんじゃないかと思うんですよね。しかもメイエルホリド、エイゼンシュテイン、マヤコフスキーというのは特にサーカスというのを精神的に深いところで受け止めていた人たちだったと思います。だからこそ、例えばメイエルホリドはサーカス演劇というのが流行っていたときに、やはりサーカスはサーカス、演劇は演劇という風に分けて考えるべきだと言ったわけです。サーカスの革命はサーカス自体がやるべきだし、演劇の革命は演劇がやるべきだということをかなり早い時代に言っているということは、要するに付け焼刃的にサーカスと演劇を一緒にしてはいけないということ言っていたんじゃないかと。
 本にも引用させてもらったんですが、エイゼンシュテインが1940年に書いた論文があって、それが『サーカスのミステリア』です。最近見つかって、非常に難しい文章だったんですが、その中でメイエルホリドと同じようなことを言っていたのが印象的だったんです。「サーカスはそれ自体完結した表現であり、それは思想化して利用されるべきではない。サーカスがあくまでも非対象の詩的言語であるということを主張したわけである」。これは僕の文章ですが、エイゼンシュテインはこういうことを言っています。「サーカスの番組から思想的統一体を作るという25年にわたる不断の試みが失敗に帰したということ自体が、サーカスの見世物それ自体、内容となっていることを理解できない人たちに、それを実証することになった」。つまり、エイゼンシュテイン自身はサーカスと演劇をくっつける作業をよしとしなかったと主張したんでしょう。アレクサンドロフの作った『サーカス』という映画に対する完璧な批判だと思うんです。映画自体はスターリン賞をとって空前の大ヒットを飛ばしたわけですけれども、やはりその中にはスターリン崇拝という思想性が入っている、それは違うだろう、ということをエイゼンシュテインは1940年の段階で言っていたということは、僕にとってはすごい印象的だったんです。やはりアヴァンギャルドの人たちはつらい戦いをして最後のよりどころにサーカスに行ったのではないかと、言えるのではないかと。メイエルホリドもエイゼンシュテインも、サーカスがあくまでも非対象の言語であるということで、そこに表現の可能性を見ていこうという気持ちでいたという意味では、同じだったのではないかという気がしています。

 ではここで、まあ、まったく関係ないといったら関係ないですけど、僕は去年サーカスフォーラムというものに参加しまして、サーカスに携わる人たちが中心になったシンポジウムなんですけど、大変刺激的でいろいろな発表がありました。そのときにあるメイエルホリドの研究家が、メイエルホリドが最後に構想していた未完の劇場というものがありまして――僕もいろんな模型で見たことはあったんですけど、その内部というのは見たことがなかったんですね――このときに彼が内部を見せてくれたんです。で、その内部がまさにサーカス場だったんですね。初めて見てびっくりしたんですけど、やはりメイエルホリドも劇場をサーカス仕立てにしたということだけじゃなく、こういったことを考えていたのだとかなり衝撃的だったんですね。もうひとつはそのときこれもフランスのメイエルホリドの研究家の人が見せてくれたんですが、『DOCTOR DAPERTUTTO』という、メイエルホリドが革命前に使ったペンネームをモチーフにしてチリの劇団がパリのオーリャックというところで野外劇としてやった作品の映像がとても面白かったんですね。それをご参考までに。

 


かなり大規模なスペクタクルで、こういうフェスティバルでないとできないですね。いろんなバージョンがあって、これは一箇所でやっているけど、移動しながらやっているものもあるんですよね。全体像はわからないんですけど、ただメイエルホリドはすごいなと、こういった名前で現代の演出家が作品を作るくらい、オマージュがあるんだなということを見せてもらいました。
サーカスフォーラムに出たときには、演劇の立場の人から、アヴァンギャルドの立場から、サーカスに対するアプローチがあったんですけれども、いま、われわれの業界の中でヌーヴォー・シルクといって、特にフランス、ベルギー、スウェーデンとかでサーカスやっている子達が、劇的な作品を作っているという流れがひとつあるんです。演劇とサーカスというのはつながるところがあるんですけども、エイゼンシュテインが批判していたように、付け焼刃的なものではなく、どこかこう本質的な回路があれば、両者とも本来スペクタクルで見せていたはずですから、また面白い可能性があるんじゃないかなという気がします。
僕はアヴァンギャルドとサーカスというテーマで自分なりにずっと追いかけてきたんですけど、まだ追いかけ足りないなというところが実はあって。ラザレンコという道化師はかなり変わっているし、サーカスのクラウンとしても特殊な存在だったなという気がしますし、先ほどのエイゼンシュテインの非対象の表現としてのサーカスということが気になっていますし、繰り返しになりますが『賢人』という芝居のサーカス的な観点での位置づけといいますか、突き詰められていないところがたくさんあるんです。でもこうして昔の映像資料が発掘されるわけですし、今後も見ていきたいなと思っています。みなさんのおつくりになる『ミステリヤ・ブッフ』がどうなるかと物凄く期待しているので、僕のほうでお手伝いできることがあれば、お手伝いしたいと思っています。
あとはご質問などあれば。

<休憩>

三浦:マヤコフスキーやエイゼンシュテインが子供のころに見ていた、当時のサーカスの雰囲気というのはどういうものだったのでしょうか。

大島:時代的に言うと1900年代初頭だと思うんですけど、当時いろいろな町に常設のサーカス場があって、そこにはロシアのサーカスだけじゃなくてイタリアのサーカスとかも来てやっていたんです。20世紀初頭のサーカスの雰囲気がよく分かるのは、『レスラーと道化師』という映画があるんですけど、それはかなり当時の雰囲気が出ていて、こういうのを見ていたんだろうなという感じです。
『レスラーと道化師』に出てくる主人公のドゥーロフという道化師は、まさにラザレンコの師匠というか、彼が一番尊敬していた道化師なんです。この映画のワンシーンで有名なシーンがあって、オデッサに行ったときに、オデッサの市長は賄賂ばっかりもらっているんですね。彼は「ズリョーヌイ」、緑色という意味の名前なんですが、で、ドゥーロフは動物をうまく使っていろいろやるんですけど、豚に緑を塗ってやったら、客席はみんな笑ったわけです。で、市長だけ笑わない。何でみんな笑うんだと。「ゼリョーヌイ、ゼリョーヌイ」と自分の名前を呼ぶわけだから。もちろんすぐ退去命令が出て、「市からでていけ」、とね。
1920年代の雰囲気がわかるのが、『二人のブルディ』という映画があって、レフ・クレショフという人が撮ったものを、2013年かな、上映しているのを見たんですけど、舞台が1920年代のサーカスで、しかも革命期、ブルジョワ側の白軍と赤軍に分かれて戦っているのをサーカスで演じられているのがあって、結構当時の雰囲気がよくわかると思います。

三浦:ということはもう、風刺劇の要素があったってことですね。サーカス劇のようなものだと思っていいってことですよね。技術的にはどのような種類があったんでしょうか?

大島:結構すごかったんですよ。『二人のブルディ』でトルゥツイという有名な馬の調教師が出てくるんですが、僕は初めて彼の芸を見たんですけど、本人がやっているものを。二十何頭の馬を、曲馬といいますか、馬に芸をさせてね、すごかったですよ。衣装とかはどうしようもないですけど、やっていることはすごいですよ。逆に道具がシンプルなものを使っているだけに、技量がストレートに出てすごいんですね。


[参考]『二人のブルディ』日本での映画公開時の予告篇

 

 

 


三浦:常設の劇場というのはテントなんですか?

大島:いえ、建物です。

三浦:建物の中でやっていると。じゃあ、ブランコとかはあったんですね。

大島:ありました。19世紀の後半からはもう大体主要都市にはサーカス場がありましたよ。

三浦:そこにいるサーカス団というのは誰がやっているんですか?家族とか?

大島:大体みんな契約ですね。みんなシーズンごとに契約して。だから日本のサーカスがいろいろな外国人の人たちを雇って一年間契約しますよというのと同じような感じですね。まあ、そのサイクルが1年ではないですね、だいたい3ヶ月とかだったと思いますけど。

楯岡:常設というのは、支配人はずっと劇場にいて、彼が契約をとってきてそのシーズンのプログラムを組むと、そういう形ですね。

三浦:観客は演劇を見に行く人とかぶってた可能性ありますか?

大島:いや、どうですかね、違うと思いますよ。

三浦:では先ほどおっしゃっていた、演劇人がサーカスを取り入れたというのは特殊なことなんでしょうか?

大島:かなり特殊だと思います。

三浦:マヤコフスキーの最後の作品というのも、マヤコフスキーの演劇作品を見ていた人が見たわけではなかったんでしょうか?

大島:と思いますね。やはりサーカス場で演じていますから、サーカス場に来る客でしょうね。もちろん、マヤコフスキーがやるからって見に行っている人もいるとは思いますけど、それをサーカス側はターゲットにはしていないですからね。客層は違うと思います。

楯岡:マヤコフスキーはどれくらいサーカスの脚本を書いていたんでしょうか。

大島:マヤコフスキーはラザレンコのために2本書いているんですよね。『ソビエトのアルファベット』と『階級闘争世界レスリング選手権』。完璧ラザレンコのためのものです。いまテキストが見れるんじゃないでしょうか。『ソビエトのアルファベット』は見れると思います。アルファベットをこうやって持ってまわったりとか……。

 

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『ソビエトのアルファベット』 挿絵は一部掲載

楯岡:ラウンドガールみたいのが出てきて、アルファベットを持ってアリーナを回ったりしていたんですよね。
 アヴァンギャルドのひとつのテーゼというのが、それぞれの芸術作品のジャンルにはそれぞれの独自性があるのだということがあって、独自性を残しながら同時にほかのジャンルの手法を全部取り入れちゃおうという横断的なことがあったと。縦軸と横軸の関係が、どの分野でも起きていたわけです。それを最終的に、「ミックスすればいいわけじゃないよ」と言ったのがメイエルホリドだったと思うんです。
 サーカスにとって、演劇人たちが手を突っ込んできたわけですが、サーカスの可能性というのは、ソビエトになってから大々的にそういうメディアミックスというかサーカス演劇みたいなものが生まれたことで、かなり大きく変わったんですか? それとも、その後なくなって、いまのロシアサーカスみたいなものが変化して言ったのでしょうか。

大島:歴史的にみるとそこでいったん終わったんじゃないかと、僕は評価しているんですけども。ただ、この時代にはまだ「青シャツ」とかは入っていないからね。「青シャツ」は大道芸のように外でやるような、しかもある程度プロパガンダを意識していやっている。そっちのほうをたどっていくとまた違った流れは出てくるかもしれないですね。そういった意味で「青シャツ」は結構重要なポイントかもしれないですね。
 やはり、客が飽きていったんじゃないかなと思いますね。2年くらい続けて、最初は面白かったけれども、サーカスと演劇をくっつけて出し物何をやるんだといったときに、作品がなかったんじゃないかな。芝居を見に来る人たちにとっては、ちょっと飽き飽きしちゃったということがあったんじゃないかな。

楯岡:物語重視になっていくと飽きちゃうんでしょうね。でも物語じゃなくて、芸で見せていくんだったら何で物語がいるんだってことになってしまう。それがうまいバランスになっていくということ自体が、かなりの作品の質と、演出の能力を問うもので、そう簡単にできるものじゃないわけですよね。そこにみんなが手を出しちゃって、みんな飽きちゃったと。

大島:現在のフランスなんかのヌーヴォー・シルクを見ていても、演出家が口出すとろくでもないことになるんですよ。演じている人たちがちゃんと自分たちはこういうものをやりたいんだって事があって、それをこうしてほしいと演出家に頼むんだったらいいけど、最初から演出家がばっと出てきてこういう風にやれっていうとかなり辛い作品が出てきてしまいますよね。まあジャンルは確立されてきているという印象はあります。でも何でフランスでできてロシアでできないのかって言うのはひとつあるんですけど。ロシアの人たちはどうしてもサーカスのテクニックが先というか、俺たちはフランスのヌーヴォー・シルクじゃないぞという自負があるんですよねきっと。テクニックが先にいってしまって、それを使って表現したいことが見えてきていないんでしょうか。

三浦:その違いって何なんですか?

大島:サーカスフォーラムの時に、メイエルホリド・センターが『360度』っていう新しいサーカスを作ったということで演出家とディレクターが話していて、これがロシアのヌーヴォー・シルクなんだって言い方をしていたんです。すごく見たいなと思ってやっと映像を手に入れたんですけど、メイエルホリド・センターの小さい円形の客席の中で、70分くらいのサーカスでした。それはね、それぞれの演者がモノローグでしゃべるんですよ。自分がどうしてこういうサーカスの世界に来たのかって言うことを。で、演技を見せはじめると。でもフランスのヌーヴォー・シルクの人たちって言うのは、そういうモノローグで言えないことを身体で表現しているはずなんですよ。どうやったら言葉を使わずに自分たちの内面を表現できるのかというね。まあですから『360度』という作品は過渡期にあるとは思うんですけれども、内面と芸が分離しちゃっているというか、一体化していないんですよね。なぜそのような違いが出てくるのか、ちょっとまだ僕には分からないんですけど。ロシアにとうとうヌーヴォー・シルクが出たのかという意味では興味はあったんですけど、出来上がった作品を見たらもうちょっとかなと。これをヨーロッパ、日本でやろうかと思ったときに、ちょっとどうかなと。まだ実験段階かなと。

楯岡:モスクワの現代劇の流れがあって、「ノーヴァヤ・ドラマ」、つまり「ニューウェーブ・ドラマ」というのがあって、それは自分語りなんですね。私は誰なのかということをモノローグで語るというのがブームなんですよ。

大島:そうそう、そういう感じ。

楯岡:その演劇とサーカスをあわせちゃったんじゃないでしょうか。ベースになる演劇がヌーヴォー・シルクの場合ドラマ性のベースがちゃんとした従来型の演劇だったとしたら、ロシアではベースに取ってきた演劇がモノローグだったと。一人芝居が流行っていて、観客は聞いていなくても私(俳優や劇作家)が語ればそれでいいというようなスタイルで、それがドッキングしちゃった可能性はありますね。

大島:可能性は大ですね。

田嶋:ヌーヴォー・シルクというのはどういったものなんですか? シルク・ド・ソレイユとは違うんですか?

大島:あれとは違うんですね。フランスのサーカスの流れって結構あって、だいぶ時代は下りますが、要するにフランスの家族で伝統のサーカスをやっていた時代があって、それでは結局ショーが成り立たなくなってしまって、一時期メドラノサーカスという有名な劇場が閉鎖されたりして、かなり危機的な状況があって、その後で、フランスの有名な文化大臣がサーカス学校を作ったんですね。そのサーカス学校で学んだ子達、伝統サーカスではないよそから来た子たちですけど、4年間きっちりとした指導を受けて、そうすると今度は、ただサーカスというものを見せて楽しんでもらうことだけじゃなくて、自分たちで表現したいことを自分たちの肉体を使って表現するということで、ヌーヴォー・シルクというものが始まったんですね。いまから10年くらい前に生まれたんです。最初は芝居・演劇をやっている子達が身体が動くようになってきて、そこでいろいろなカンパニー、そんなに大きくはないんですけど、3人とか4人とかね、それがムーブメントになって、ベルギーやドイツ、ヨーロッパに広まっていったわけです。一番強いのはフランスですよ。シルク・ド・ソレイユというのはまたちょっと違いますね。お客さんの単位も100人とかでやっていて、大観衆ではなくて、むしろ自分たちの小さなテントで回ったりとかですね。結構日本でもそこそこファンがくるようにはなっています。われわれの会社も来年、フランスの2人でやるジャグラーのヌーヴォー・シルクを呼びます。

楯岡:そうするとあれですか、フランスのヌーヴォー・シルクの本家は、台詞は基本的にはないんですか?

大島:ないです。

楯岡:パフォーマンスの中でドラマがちゃんと伝わるような形になっているんでしょうか。

大島:そこまで劇性があるわけではないですけれども、台詞はほとんどないですね。あとは音楽とのセッションですかね。

楯岡:ロシアの場合、バレエも喋っちゃいますけどね。結局あまり成立しなかったですけど。言葉で何かしようっていう気持ちがあったんですかね。

三浦:革命直後の祝祭的な雰囲気というのが本を読んでいても出てるし、『ミステリヤ・ブッフ』も祝祭劇というところがあるんですけれども、その空気というのがサーカスにおいてはどういった芸に現れるのかなと。『ミステリヤ・ブッフ』も革命が起こりそうで、なんというか解放感、プラス思考の雰囲気がありますが、いま読むとどうなのかなということが僕の中ではあるんですが。実際にはラザレンコのように活躍した英雄的な存在もあると思うんですけど、どういう雰囲気だったと思いますか。当時は。

大島:まあ僕なんかが感じたのは、いい芸を見たときに客席で手を叩きたくなるような感じ。それが伝播していくというか、芸自体がすごいことに客席が反応して、一体化していた部分というのはあったんじゃないかなと。そうするとまさに祝祭的な空気が出ていたと思うんですね。僕はあんまり好きじゃないんですけど、煽るような芸がありますね。煽って出てきた拍手とは違って、自然発生的な拍手って言うのはやはりすごいと思いますね。すごい芸を見て拍手しているうちに一体になっているというような。サーカスではなかなかそういうことはないと思うんですよね。たぶんそれは、僕がこういう時代を生きているからなかなかないだけであって、もしかしたら時代の雰囲気によって、空中ブランコで離れ業やってキャッチしたときなんか、やっぱりわーってなると思うんですよね。それが伝わってきて、客席と舞台とが総合的に高まっていくみたいなことが当時あったんじゃないかと思います。ジャグリングでもね、五本を増やしていって七本でやって成功したらワッとなっていっただろうし、サーカスの芸って見栄を切るわけですけど、その時にうまくいったらそれこそワッとなりますよ。とにかく最後のフィナーレの芸で盛り立てていくって言うような、例えばハンドスタンドなんて、最後に頭の上でしゃがんだ状態で倒立して、そこから立ち上がるとか、見ているほうとしてはうれしいですしね。一番はやはり空中ブランコですよね。3回転とか、誰でも喜ぶと思いますよ。スタンディングオベーションをおくったんじゃないですかね。丸い空間ですし、すごい臨場感はあったと思うんですよね。20年代初期まではそういった英雄的行為によって客が興奮して、それが演者にも伝わって盛り上がるっていうようなことがね。

三浦:先ほどの『ミステリヤ・ブッフ』の舞台装置、初演のものを見ましたが、再演もそうだったんでしょうか?

大島:いや、違いますね。

三浦:では完全にサーカスの円形でやっていたんですか?

大島:実際には一回目は舞台でやって、その後サーカス場でやっているんですね。第三インターナショナルかなんかの大会のためにサーカス場を使ってやっていたと思います。

三浦:ではラザレンコが出ていたものにはあの装置は関係ないんですね。

大島:そうですね。

三浦:評判はよかったんですか?

大島:よかったんじゃないんですかね。写真がないんですよね、文章しかなくて。ただ、ラザレンコが空中で登ってやってたっていうので、たぶん額縁じゃ収まらないと思うんですよね。さきほどの『賢人』のセットに近い感じではないかと思います。額縁外してフラットにしてやっていたんじゃないかと。

三浦:そのときの劇評とかエピソードとかってないんですか?

大島:もう少し探せば出てくると思います。見た人は沢山いるんでね。

楯岡:フェブラリスキーが1冊まるまる書いているので、ちゃんと読めば出てくると思うんですけど。かなり舞台を飛びまわっていたという話ですよね。だからすごい高揚感というか、あったと思いますよ。われわれはメディアで慣れすぎていますけど、先ほどのラザレンコの跳躍とかをみると、一つ前の時代、バレエ・リュスのニジンスキーを思い出しますよね。窓があってその前に女の子が寝ているベッドがあって、それを飛び越えて外に飛び出した。その後で批評家たちが楽屋まで来て、ジャンピングシューズじゃないかって確かめたんですって。バネ仕込んでるんじゃないかって。見たら仕込んでいなくて驚いたというエピソードがあって、それだけでもすごく新鮮、超人だったんですよね。

大島:まあ、象三頭分越えているわけですからね。タッパもありますし、踏み板を使っているにしても、40歳近くで、あの距離と高さがあったら跳躍技としてはすごいですよね。

田嶋:空中ブランコっていつごろからあるんですか?

大島:空中ブランコはですね、ジュール・レオタールという人がいたんですけど、1850年代ですかね。そのときの彼の格好がいま「レオタード」と呼ばれるあの格好だったので、それで名前がついたというのが割りと有名な話です。レオタードの日というのが11月にあって、まさにその日が飛び移った日らしいと。ラザレンコたちの時代には間違いなく空中ブランコはやっていますからね。
 ドイツ映画で『ヴァリエテ』というのがありまして、その中で「ウィンターガーデン」というベルリンの大きなキャバレー、今でもありますけど、そこの中で空中ブランコをやっている映像があって、それがすごいんです。合成じゃないかなと思うんだけど、3回転はしないけど、2回転して戻りでまた回転してってやっている。いまのブランコは一度回転したら帰りはそのまま帰るのが一般的なので、だからレベルという意味では今も昔もそんなに違いはないですよ。
 「4匹の悪魔」という、当時「民衆喜劇座」とかに出ていた連中なんかは、『ヴァリエテ』で出てくるくらいのことはやっていたんじゃないかなと。

小林:僕らこの間、北京で中国雑技団を見てきて身体能力の高さにぶったまげたんですけど、大島さんが今まで見てきた中で、これはすごいっていう芸はありますか?

大島:やっぱり空中ブランコですかね。僕は呼び屋をやっているんでね、空中ブランコって一番トラブルが多いんですよ。まずはみんな酔っ払い。気持ちはわかりますよ。高いところにいるとストレスがすごくたまると思うんです。酒ばっかですよ。空中ブランコやっている人で酒を飲まない連中は見たことないです。

三浦:え? 飲みながらやっているってこと?

大島:いやいやいや。終わってからですよ。要するに暴れたりとかね、トラブルはいつも空中ブランコ。でもね、気持ちはわかるんです。受けるほうも受けるほうで相当なストレスだし、事故も多いし。ともかく空中ブランコで三回転やる連中っていうのはすごいと思う。まあ中国人はちょっと異常だと思いますよ。
 僕ね、世界で一番異常なサーカス見たのは北朝鮮ですよ。あの空中ブランコは半端じゃない。命かけてますよ。あいつらどんだけ酒飲んでんだっていうくらい。ピョンヤン・サーカスっていうんですけど、今はさすがに公演しませんけども、僕はたまたまスイスで見たんです。あれは半端じゃない。飛ぶスピードがぜんぜん違うのね。だからあれで回転したら、受けるほうも大変だし、よくやってんなと思って。あの人たちが一番恐ろしい人たちですね。生で見てぶったまげましたよ。

楯岡:以前に見せていただいた、名前忘れちゃったんですけど、日本人の家族がペテルブルクでしたっけ、ずっとやっていてっていう。

大島:シマダね。『明治のサーカス芸人がなぜロシアに消えたか』という本で書きましたが、あれは日本人じゃなくて、朝鮮の人だったっていう。名前だけシマダって名乗ってたんですね。もちろん日本にもすごい芸は沢山あったんですが。シマダの芸は本当にすごいですよ。僕は映像でしか見ていないですけど、Youtubeにあがっているんで見てください。

 


三浦:僕が面白がっているのはサーカスの芸そのものというよりも、この間のリトル・ワールドで見たような、子どもが上がって芸をするときに、命綱をちょっと持ち変えようかというときに、下にサポートの人が来るでしょ。あれがたまらないんです。見ちゃうんです。落ちるとやばいんだなっていう。この間の雑技団もそうなんですけど、綱渡りしてその上に一輪車に乗ると。で、一輪車持ってくる人がいて、しばらく待機してるんだけど一輪車に乗った瞬間に退場するんだよね。ここからはもう落ちないんだなっていうか。

大島:それは面白いところを見ていますね、通の見方ですよそれは。

三浦:あそこがどきどきする。つまりそういう要素があれば、なんか面白いんだろうなって思っているんです。でも雑技団のやつは残念ながらブランコなかったんです。

大島:中国人はね、ブランコ苦手なんです。

三浦:ほかのは本当にすごいスピードで、シルク・ド・ソレイユばりに映像も音楽もバンバン流しちゃって、無音で見せたら相当凄いのに、演出過多になってしまっていて、凄さがわからないんですよ。

大島:あほですよね……なんであんなに映像流すのかってね。

三浦:凄さが分からなくてもったいないなと。緊張感があればたぶんサーカスってもっと面白くなる。あと、家族関係見ちゃうよね。ドサ回りしているんだなーとか。それもやっぱり魅力だと思うんです。そういう感じをちょっと面白がっているんです。ですので、実際に演劇の中にサーカスの技を取り入れるかってなるとちょっと違うかなとは思っているんですけど。さっきから気になっているのはエイゼンシュテインにせよメイエルホリドにせよ、演劇とサーカスを安易にミックスできないんだと、その発言自体は分かるんですけど、では彼らはそもそもサーカスに何を見ていたんでしょう。そこが興味を少し持っているところです。日本で言うと、中原中也の「ゆあーんゆよーんゆやゆよん」って詩があるんだけど。あれは大正…

大島:大正5年ですね。

三浦:あれはなんとなく分かるんだけど、(エイゼンシュテインやメイエルホリドの場合は)どうだったのかなと思っているんです。

大島:二人ともノスタルジアは感じていると思いますよ。メイエルホリドもエイゼンシュテインも。子どものころに見たものってそうだと思いますよ。ホドロフスキーの映画でも彼が子どものころに見たサーカスっていうのが印象に残っていて、いまだにああやってサーカスの場面が必ず出てくるし。メイエルホリドも、チェーホフも子どものころにサーカス見てますから。自分でも書いているし、そのときに凄い芸を見たっていう、ノスタルジーがあったとは思うんです。

三浦:そのときに空中ブランコってあったんですかね。

大島:微妙ですね。

三浦:ピエロは出ていますよね。

大島:クラウンは出ています。

三浦:熊とか動物はどうですか?

大島:熊は出ています。熊、犬は出ていますね。

三浦:あの、フェリーニでしたっけ、『道』で描いていますけど、あれはサーカス芸人ですか?

大島:あれは大道芸ですね。

三浦:じゃあ、ああいう雰囲気はなかった?

大島:なかったですね。いわゆるストロングマン系というのはあるんですけど、それは力技を見せるんであって。あれはしないですね。あれはどちらかというとマジックなんですよ。脱出系の。フッディーニという人が有名ですが、いわゆる脱出王と呼ばれる人です。『道』のザンパノさんみたいなのはまさに大道芸の芸ですね。サーカスではああいうのはないんです。

三浦:じゃあ、サーカスと大道芸というのは基本的には違うものなんですね。

大島:違いますね。サーカスというのはあくまでも都市化文明の中で生まれてきた娯楽ですから。ただしいろいろなカテゴリがあるわけです。例えばテントで回っているサーカスもあれば、常設のサーカス場もありますし。規模は違いますが、外でやっているものと、内でやっているものとは違うものだと思います。

楯岡:でも中原中也のノスタルジーと、メイエルホリドやエイゼンシュテインのノスタルジーはちょっと質が違うような気がしますけど。

大島:違うと思いますよ。

楯岡: 20世紀初頭に革命が起こったときって、科学技術信仰があって、タトリンとかもそうですけど、人間が進化すると空を飛ぶんじゃないかということが半分まじめに信じられていた時代。サーカスの芸人さんって本当にすごい英雄だったんじゃないかと思うんですよね。だから単なる子どものころに見たなっていうことだけではなくて、本当にそれがリアリティをもって迫ってくるところもあったんじゃないかって思いますけど。どう思われます。まあ、「新しい人々」みたいな。

三浦:未来派との関係は?いま言っていた科学技術信仰っていうのは、未来派につながっていきますよね。サーカスと未来派っていうのは、密接にくっついているんですか?

楯岡:未来派のほうにはくっついているけど、サーカスのほうにはないですね。

三浦:サーカスのほうはあまり気にしていないと。

楯岡:先ほどの話で言うと、サーカスに演劇からの影響が少ない、結局は残らなかったかもしれないけど、ロシア演劇には明らかにサーカス路線が残っていて、俳優の優れた身体能力というのは、クラウン芸を俳優学校で取り入れているからあれだけの能力があるんですね。演劇はすごく吸収したのかなと。

大島:クラウンはそうかもしれないですね。ただね、どっかでね、ノスタルジアがあったと思うな俺は。ホドロフスキーの映画で感じるものと近いようなもの、エイゼンシュテインは絶対クラウンなんです。クラウンになりたいと彼は間違いなく思った。メイエルホリドは知らないけど。

楯岡:でもメイエルホリドもピエロ役を絶対手放さなかったですよね。周りがやめとけっていうのにやっていたんですから。

大島:むしろね、空中ブランコとかよりも、クラウンのほうがインパクト強かったのかもしれない。

楯岡:圧倒的にそうでしょうね。

大島:先ほど中原中也の話が出ましたが、あの時ってサーカスという言葉もなかったし、ブランコという言葉もサーカスでは使われていなかったんです。サーカスという言葉が入ってくるのは昭和8年からなんですよね。中也がサーカスって詩を書いたのは昭和5年ですけど、彼がサーカスを実際見ているのは大正時代ですね。ただあの人はすごく新しい人で、サーカスという言葉がなかった時代にサーカスを見て、ブランコって言った。しかも具体的にかいていますし、「頭逆さに」して客席を見ていますから。撞木(しゅもく)という技で、実際にあったんですね。でもあえて彼は「ブランコ」って使っている。響き方ももちろん面白いけど、新しい詩的言語だったんじゃないかなという仮説を持っています。サーカスって結局、新しい部分もあるところが面白いですよね。

三浦:ではこのへんで、ありがとうございました。

 

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