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マヤコフスキー研究会 第4回
2015年5月26日(火)17:30-20:00
京都芸術劇場春秋座 舞台上舞台


劇場実験

 

三浦:たくさんお集まりいただきましてありがとうございます。

演出の三浦です。この大学の教員もやっている者です。

今日は研究会と称しまして、こういった機会をいただいてやっています。

ご覧になってわかる通り、円形の舞台です。こういう形状の舞台で演出をするのは初めてで、いろいろ実験しているというところです。

今日はまず神戸大学でロシア文学を研究していらっしゃる楯岡先生から20分ほど解説をいただいて、その後に地点によるテキストのリーディングを20分、その後に今回一緒に作業をしている空間現代に発表を20分間してもらいます。休憩を挟みまして、デモンストレーションをやって終わりです。では、はじめに楯岡さんからです、よろしくお願いいたします。

 

個別発表その1:楯岡求美による発表

 

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楯岡:ご紹介いただきました神戸大学の楯岡と申します。ロシアの主に演劇を中心とした20世紀の文化論を研究しています。今回研究と実践をつなぐというプロジェクトでしたので、最初に私のほうからお話をさせていただくのですが、今日は概説や入門というよりも、地点と行ったこれまでの3回の研究会の過程で、リハーサルなどを見ながら私なりに今後深めていきたいと考えている問題をみなさんに提起するような機会にしたいと思っています。

 

皆さんお手元にハンドアウトがあるかと思いますが、それに沿って簡単にお話していきたいと思います。

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『ミステリヤ・ブッフ』というのは、ご存知の方は少ないかもしれませんが、1917年のロシア革命を洪水に例えていて、その洪水がすべての大地を水没させてしまうという設定から、ブルジョワと労働者がノアの方舟を作って再び約束の地を探しに行く、という話です。この作品は革命の1年後、1918年に書かれたのですが、革命とこの時代のロシア・アヴァンギャルド芸術というのは、社会と芸術の革命がシンクロした非常に稀有な時代として特徴付けられると思います。『ミステリヤ・ブッフ』はこの時代の代表的な演劇作品なのですが、いまだに謎が残されているというか、きちんと取り組まれてこなかった作品のひとつです。革命にかかわる作品としてはすでに古典作品であり、ある意味で演劇史を学ぶ誰もが知っていてま、18年、21年、22年と再演されています。しかし、当時ではなく、もっとずっと後に、ある種の古典作品として再演された際、成功した試しがないというある意味「魔」の戯曲です。ですので、今回地点が11月に公演を行うわけですが、非常に意欲的な取り組みということになります。

 

『ミステリヤ・ブッフ』の特徴でまず最初にあげられるのが、言葉が二つくっついているということです。「ミステリヤ」というのは聖書を題材にしたお話で、「ブッフ」はドタバタ喜劇、ファルスのことを言います。特徴としては第一に、ロシア革命、つまり世界で初めての社会主義革命を本格的に取り上げた戯曲であること。しかも革命後すぐに上演をされたということが特筆されます。もう一つは「ミステリヤ」というのが聖書、「ブッフ」がドタバタ喜劇、つまり聖俗あわせた喜劇であるということも、タブーを破壊していく激しい性格を持った作品ということです。当時は天地がひっくり返るほどの衝撃を与えたというふうにも言われている作品ですし、そういう意味でも非常に興味をそそられる作品です。さらにもう一つ特徴をあげれば、まさに地点との作業の中で私が感じたことなんですが、戯曲が「いまここ」を取り上げていることです。これも実は演劇の作品の中では非常に珍しい、貴重なものなんじゃないのかなというふうに思っています。そのことについては、後で詳しくお話をします。

 

洪水があって、方舟があってという話をしましたが、これはもちろん旧約聖書の創世記のノアの方舟をモチーフにしています。ノアが登場してくるのではなく、20世紀の革命後に新たに方舟を作って出かけていくということですが、創世記に描かれているようにアララート山という、現在トルコとアルメニアの境に現存する山なんですが、そこに方舟が引っかかって新たな時代が開かれるというエピソードを元に、パロディ化している作品です。革命を洪水に例える比喩というのは、マヤコフスキーの特権ではなくて、同時代によく見られた比喩の一つです。なぜマルクス主義革命、言ってみれば「唯物史観」という即物的な側面を持った思想の革命なのにキリスト教が混ざってくるのかというと、皆さんが思われている以上に、ロシアの革命が起きた当初というのは、原始キリスト教、キリスト教の根源に立ち戻ってある種のユートピアを探そうという意識が社会主義、マルクス主義的思想と同時並行して非常に活発だったということ、そしてロシア社会というのは東方教会、つまりロシア正教という、あくまでもキリスト教的な枠組みの中にあったので、その枠組み自体を問い直すという意味でこういったモチーフが使われています。

 

語られている内容、取り扱われている内容ですが、「ポスト洪水」が描かれてはいるのですが、いきなり革命後にユートピアが描かれるのではなく、一旦、人類の歴史のすべてが振り返られます。この世というものがどうできて、どうなったのかということが、天地創造から教会権力が成立し、更に王権という世俗権力へ移行し、フランス革命が起きて共和制となり、そして、社会主義革命が起きるというように、人間の社会が変化していったということが振り返られる内容になっています。現実のソ連のでは内政干渉戦争などがあり、戦間期であったということもあり、革命の翌日から全てが正しくユートピア化したんだというような説明が繰り返されるようになってしまったんですけれども、マヤコフスキーの作品はそういう単純なものではありません。革命が起きたものの、結局のところ飢え死にしそうなくらいの空腹、そういった問題というのは解決していない。さらにもっと言うと、ある種の『ミステリア・ブッフ』では、人々がロードムービー的に旅をして、約束の地を探しに行くんですけれども、結末でほぼ元の町に、振り出しに戻ってきてしまうわけです。要するに約束の地があったのではなく、革命を迎えて古い社会が壊れた後、私たちはどうするのか、という問いかけの形になっています。それは言ってみれば、『青い鳥』であるとか、『ねずみの嫁入り』――ねずみが理想のお婿さんを探して太陽だとか天空まで行くんだけど、結局ねずみが一番強いといって戻ってくるというような――お伽噺の構造も含まれていまして、人間社会に共通の語りの構造というものをマヤコフスキーの『ミステリヤ・ブッフ』は持っています。

 

こういうふうに、歴史というものがひとつのテーマになっているわけですけれども、最初にこの作品は「いまここ」ということを取り上げているのだという話をしました。演劇というのは前提として、いま皆さんに集まっていただいているように、観客と俳優とが同じ時間に同じ空間を共にするというのが第一条件です。スクリーンがあるわけじゃなく、同じ空気を吸っているということですね。しかしながら、実際に上演されている作品を思い浮かべていただきたいんですが、実は、演じられている内容は、過去もしくは未来のどこかこことは違う場所で起きた出来事をなぞるという作品が基本になっている。俳優もその人自体という意味での「私自身」ではありません。「わたし」という役で出てきたとしてもそれは俳優個人ではなくて、あくまでも何らかの抽象化された役柄を演じているわけです。そこに必ずフィクションが入ってくる。そのフィクションというのは何かといったときに、まさに「物語」というものが必要なのです。「物語」といっても、誰かが何か事件を起こしてそれが解決されるというような、ストーリーがある話ではなくて、世界観という意味です。私たちはなぜここにいるのか、そしてこの世の仕組みはどうなっているのかというような、いま私たちがいるこの空間が作り上げられる構造をどう考えるのか、ある種の思想的なものが要求されることになる。過去から現在を通って未来へというような、ひとつの時間軸を有しているということです。

 

もうひとつ、場を共有するということから考えられるのは、「見る/見られる」という関係です。一般には観客が俳優を見ると考えがちですが、観客のほうも俳優側から見られる存在であり、ただの目撃者ではない。例えば、映画であればスクリーンをただ見るだけですが、演劇の場合、見返されるという相互性があるんですね。マヤコフスキーの『ミステリヤ・ブッフ』の先行作品になるんですけれども革命前に書かれた『悲劇ヴラジーミル・マヤコフスキー』、まさに自分を題名にして、自分を主人公にして、しかも悲劇と銘打ってしまうという大胆な試みをしています。なおかつこの中で自分は神であると宣言して、神の位置を奪ってしまうというような内容なんですね。主人公が神として人々の悲しみを背負って救済しようとする、それがある種の不可能性をはらんでいるんですけれども、その可能性を探る物語なんです。

 

エピローグでマヤコフスキーは、「この作品はあなた方のために書いたのだ」と観客に呼びかけています。それはどういうことかというと、ヴラジーミル・マヤコフスキーという「わたし」が主人公です。ところが「わたし」というものが、あなた方観客ひとりひとりが「わたし」となったときに、それが複数化されて、すべての人々を含んで「わたしたち」の物語になると。日本語って便利なんですが、「わたしたち」という「わたし」が複数化するそういう集合体、コミューンといってもいいかもしれませんが、そういった世界を描いています。

つまりまとめると、演劇というのは物語のフィクション性、「いつかのどこか」という記録と、それから「いまここ」で目撃するというドキュメンタリー性その二重性を常に意識しているということになります。同時代の、この作品を最初に演出したメイエルホリドなんかは歌舞伎を引き合いに出して、フィクションとして演じられる物語と、その演じている俳優を観客が二重に意識するのだ、つまり常にフィクションというのは意識化されているべきであるということも言っていますが、それとつながってくるのではと思います。

 

結局、何を表現しているのか、というと、演劇というのは宇宙・世界観を表現しているわけですが、それには過去があり未来がある、その中間点に現在がある。現在というのは今私たちが刻々と過去に、今この瞬間を捉えることはできずに流れていく時間の塊ですから、一定の未来に向かった方向性をもったベクトルとしてしか表現できない。つまり過去があって未来に行く、その中間、過程、わたしたちはここにいるということは、その流れの中でしか表現できないという、非常にメタフィジカルというか抽象的な世界というものが舞台の上では演じられているということです。

 

三つ目の特徴として、これは「喜劇」であるということです。一般にファルスとか、ブッフという風にドタバタ喜劇と言うと、おなかを抱えて笑うとか、吉本新喜劇的な感じがしますが、必ずしも笑いを伴うということではありません。笑いというのはつまり、固定観念というものを崩していく、揺り動かすような激しく揺さぶるような要素だと考えます。一番の大きな特徴は、「権威を引きずりおろす」ということです。もちろんファルスであるということには、例えばシェイクスピアの『リア王』なんかで出てくるような、赤ん坊というのはこのばかばかしい道化芝居の舞台に生み出されて、それが悲しくて泣くんだというようなことが確かあったと思うんですけれど、われわれの生きていく社会は非常にばかばかしい抑圧的な社会である、それを笑い飛ばすことでしか私たちには前進していく力はないんだということがもちろん入っています。

「ミステリヤ」と「ブッフ」というものが二つあって、その両方の関係というのはどうなっているのかということも疑問をもたれると思いますが、両方が混ざっているというよりも、「ミステリヤ」つまり聖書というもの、世界の創造を書き記した物語をドタバタ喜劇で翻訳する、解釈をする、という風に考えてみたらよいのではと思います。チェーホフの芝居でも一見感情移入型、非常にリアリズムに見えるんですけれども、あの作品というのも実はボードヴィル、つまり人間の日常生活をボードヴィル的にカリカチュアしているという要素があって[1]、一見ケラケラと笑えないのでなぜあれがコメディなんだという議論がずっと100年にわたって行われているんですけども、でもやはりその生きている人間、そこにいる人、もしくは存在している時間なり社会なりを異化する、ちょっとはずして考える、そういった要素が入っているところがまさにコメディ、ファルスであるということではないでしょうか。

 

『ミステリヤ・ブッフ』のなかで笑い飛ばされているのは何かというと、過去から現在までの人間の歴史です。それから地獄も天国も蹴飛ばして歩きますので、悪魔や神をドタバタ喜劇で解釈する。人間の歴史を描くということは、過去にユートピアを求めない、これから自分たちが作ってゆくのだということです。『悲劇ヴラジーミル・マヤコフスキー』もそうなんですけど、過去であるとか宗教であるとか、慣習や伝統などさまざまな縛りを振り捨てて、個人というものが自立する、屹立する、権力のような支配関係の下に使役される立場ではなく、独立する、と。

それは社会からはみ出して孤立するということではなく、マヤコフスキーが心の中で描こうとしていたひとつの可能性としては、仲間がいて、理想化されたアーティスト、と言ってもいわゆるお芸術の作品を作るということではなく、技能者ですね、つまり本来的な意味で、世界をつくっていく能力を持つ人となり、世界をアート化していく。そういった可能性を示唆しているのではないでしょうか。芸術の革命ということは、つまりひとりひとりがアーティストになるということ。ひとりひとりが世界に能動的に関わって少しずつ変えていく、それが芸術の革命であり、社会や世界をアート化するという当時の目指すべきとされた思想だったのではないかと、改めて『ミステリヤ・ブッフ』を読み直してみたときに感じています。

 

『ミステリヤ・ブッフ』の笑いというのは非常に重要な要素になっていいます。先行作品としての『悲劇ヴラジーミル・マヤコフスキー』が神としての「わたし」と言うけれども、皆さんもそうなんですよという形になっています。ただ悲劇ですので、運命とか社会・世界・宇宙というものとの軋轢に立ち向かっていかなくてはならないという悲壮感がある。非常にロマンチックな作品です。そこには世界に真摯に立ち向かう私たちの相互信頼と責任について全面的な信頼関係がある。ある意味では性善説ですね。対して同時代のエヴゲーニイ・ザミャーチンという人が『洪水』という作品を書いているんですけど――オーウェルの作品と並んで、管理管理で人格を全く否定する全体主義社会を描いた『われら』という作品で有名な作家ですが――それはみんな同じで違いがない世界というものを目指すための集中管理、つまり他者の善意というものを信用しない性悪説の世界となっている。両方ともあまりにも極端というかファジーさに欠けているわけですが、ブッフの笑いというのは、まさに関西には非常になじみのある突っ込みの文化なんですよね。ああじゃないか、こうじゃないかと間違いも含めての選択肢をさまざまに提示しながら検証していく、つまりこれはどうだろ、いやそんなのやってられるか、みたいな、そうしたごちゃごちゃした中からベターなものが生み出されていく、そういう関係性というものは非常にクリエイティブなのではないかと。

 

というわけで、ちょっと駆け足になりましたが、こういうようなことを考えています。ボケと突っ込み、選択肢と突っ込み、緊張とか緩和とかが、笑いというものが持つ特性によって増幅されて、非常に豊かなディスカッションを、議論・対論する空間を生み出す。つまり芝居を観る中で、もしくは芝居に出会う・共有する中で、観客と舞台の間での対話、さまざまな思考実験が生み出されるのではないか。それが一番の理想の演劇であるとするならば、『ミステリヤ・ブッフ』というのは演劇とは何かということを実は非常に意識した作品になっているのではないかと思います。

 

地点の作品をご覧になっている方も多いかと思いますが、観客の意識に対して非常に挑発的な台詞を、ある種観客も真剣勝負で聞かなければいけないような時間を過ごすわけですが、それはまさに『ミステリヤ・ブッフ』だと思います。非常に私としても大いに期待しています。

 

いまお話しました『ミステリヤ・ブッフ』の翻訳は小笠原豊樹さんという方、残念ながら昨年お亡くなりになったんですが、名訳で土曜社から出ていまして、同じシリーズで『悲劇ヴラジーミル・マヤコフスキー』も出ていて、今日は受付で置いていますので、ぜひお手にとって読んでいただければと思います。そして更に自分なりの問いというものを見つけていただけるんじゃないかなと思います。
どうもありがとうございました。

 

個別発表その2:地点による発表

マヤコフスキー『ミステリヤ・ブッフ』第1幕第4場、第2幕第16場より


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個別発表その3:空間現代による発表

 


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野口:どうも。空間現代の野口です。

いま演奏した曲ですが、われわれが普段ライブでやっている曲でして、今回の『ミステリヤ・ブッフ』のために作ったものではありません。ただ、いつもはこういった感じの曲をやっておりますということで、最初に演奏させて頂きました。

 

聞いていただいてどういった感想を抱かれたか、さまざまあるかと思います。作り手側の考えとして少し説明させて頂きますと、こういったエレキギター、ベース、ドラムという形式、それに別の曲だと僕が歌を少し入れたりしている場合もあるんですが、こういった楽器の編成でやると、どうしても優劣というか、主従関係みたいなものが生まれてしまいがちなんです。例えばある楽器が別の楽器の伴奏になってしまうとか、ドラムは土台のリズムを作っていて、その上にベースとギターがあってさらにその上に歌が入るという構造になりがちなんですけど、僕らがやろうとしているのは、どちらかというとそういった伴奏的な使い方ではなくて、3つ楽器があったら3つの音がそれぞれ自立して拮抗しているようなもの、それをどのように音楽として作っていくかということです。そこを出発点にした上で、先ほど演奏したような曲、つまりこっちが音を出した後に別の楽器が鳴って、次にまた別の楽器が鳴ってというように、三者のそれぞれの音と音の関係性を複雑化していくみたいなことをやっているわけです。

また、いまは機械やパソコンを使って、音を貼り付けられるんですよね。配置して、コピーして、貼りつけてといったように、音楽をいかようにでもつくれてしまう。その事が念頭にあるからだと思うのですが、そういった発想から曲を作っている様な気がします。実際にそういった作業を通して作曲している訳ではないのですが、発想としてはどこかそういった考えがある。例えばライブの構成を考える時に、曲の途中で異物感のある別の曲のフレーズを突然挟みこむ、コラージュのようなことをやってみたらどうだろうとか、そういったことをやっています。繰り返されるリズムの中で、そうした出来事を生み出せばライブ全体の時間をも一つのリズムの様に扱えるようになるのではないかと、最近はそういう取り組みをしています。

 

そこでリズムとはいったいどういうものなのかという事を考えてみたのですが、多分われわれはリズムを視覚的に捉えている気がします。普通に考えれば、音楽は時間の流れの中にあってつまり流動的で、グルーヴィーなものだと思うのですが、われわれの場合はそれを断ち切るかの様な音飛びの様なリズム、つんのめったビートに興味をもっています。それはどこかビジュアル的な感覚でリズムを捉えているからなのかなと思うんです。例えばリズムというのは時間でもあると思うんですが、ひとつの絵を見たときにどういうリズムをその絵から感じ取るかというようなテーマもあり得て、それは視線の行く先によってリズムも違って見えてくる、浮かび上がってくるものも変わって見えてくる。そういうふうに空間的な意味合いにおけるリズムというものがあると思うんですが、音楽の立場なんだけれども、どちらかというとそういうような形で、リズムを「もの」みたいに見えるように扱っていきたいのかなと思っていて、今まではそういったようなことをやってきました。

 

つぎに、今回、地点と一緒にやるにあたって、『ミステリヤ・ブッフ』という戯曲を読んで感じたことがあるのでそれをお話します。まず最初に思ったのはいろいろと文字だけで見ると、結構ぶっ飛んでいる、ねじが飛んでいるような言葉の選び方だなというのがありました。でもそれが喜劇的であるというか、面白いというか、ぶっきらぼうに突然「わたしはオーストラリア人である」という台詞が出てきたり、そういうのは面白いなというか、わかるなという感じがしたんですね。あの面白さって何なんだろうねと話していたときに、メンバーが言っていたのは、どこかヒップホップを聞いているときみたいだ、ということでした。

ヒップホップはアジテーションでもあるし、メッセージがある。聴いている側としては、ラッパーは言いたいことがありすぎて、だから言葉が次々と口をついて出ているのだと思ってしまう。しかし実はその中で韻を踏まなきゃいけないとか、拍を守るとか、リズムと言葉のせめぎあいみたいなものがすごく厳密に行われていて、だから言いたいことをなんでもかんでも自由に言えている訳ではないというか、むしろそういった制限こそが、言えることを生み出しているという点に魅力があると思うんです。『ミステリヤ・ブッフ』は詩人が書いた戯曲という事もあって、そういうところが似ているのかなと思いました。

あとは「レペゼン」という言葉をヒップホッパーは使いますけど、どこどこを代表しているラッパーです、どこどこのチームにいるメンバーです、みたいな。俺は何かの代表であるという、「なめんなよ」みたいなことを言っていく、ギャングやヤンキーの文化みたいなものがあるのですが、そういった感じを戯曲から受けとりました。それは登場人物の名前が「フランス人」のように固有名ではなく肩書きになっているという事だけではなくて、全編を通して少し自分とは違う世界観の言葉に感じるという意味において、です。マヤコフスキーが訴えようとしていることは、今回の研究会で色々と時代背景や歴史を学べてようやく少し理解できる様になった程度で、実感としてはわかっていない様な気もします。つまり革命とは何か、知識でしかわかっていない。だから彼らの訴えたいメッセージや問題意識がどこか遠くにあるような気がしてしまいます。

しかし一方でストーリーを読んでいくと、「ただの人間」っていう登場人物がいたり、「物たち」がしゃべっていたり、そういった文脈や意味をはぎ取ろうとする姿勢みたいなものもある。それはわれわれが興味を持つ音楽の魅力とも通じ合っている様な気がしていて、そういうところが面白いなと思いました。

 

今回の研究会を通して、切り口というか突破口になるなと思ったのがもう一つあって、それが「サーカス」です。この円形舞台もサーカスがモチーフと言っていましたけど、サーカスの話を聞いたときに、サーカスは行為としての「詩」である、「詩学」であるという言葉が出てきて、これはとても面白いなと思ったんです。サーカスが行為としてのポエムであるということが気になっていて、自分なりに咀嚼して受け取ったんですけど、つまりどういうことかといいますと、動いちゃいけないとされるものの動き、例えば空中ブランコとか普通に乗ったら怪我してしまうものをやるわけですよね。クラウンも人間像から離れるようなメイクをしたりとか、高い竹馬のようなものに乗ったりとか、どこか日常の世界が異化される瞬間というか、それって動かないよねというものが動いちゃうということがあるなあという風に僕は勝手に受け取りました。

あとはやっぱりわれわれは構造と身体のせめぎあいみたいなもの、そこらへんのスリルに興味を持ってしまうので、そういう点でサーカスをモチーフにするのは、いけるなと考えていて、つまり意外とサーカスの要素は普段僕らが音楽においてやろうとしていることと相性がよい。それは曲の構造があって身体があって、どちらかがどちらかに追いつけない、そこからちょっと外れちゃうみたいなものを目指しているからなんです。

そして、もう一つのキーワード、ヒップホップも実はそうなんじゃないかなと思っていて、リズムとか韻とか構造というものと、自分の感性、言葉の意味を込めてメッセージを言うっていったときに、どうしても「訛り」というか外れてしまうもの、外れているように聞こえるもの、それが面白いかなと思っています。

こうした構造と身体のせめぎあい、摩擦みたいなところで出てきてしまう「訛り」と、サーカスの空中ブランコのように、動いてはいけないと思われているものが動くプロセス、これらを同時に表現し得る曲を作ってみようと思っています。いま言った、動きのプロセスというのがどういうことかというと、たとえばサーカスにおける空中ブランコ、あれがたぶん紙芝居みたいに空中ブランコが出発点から次にキャッチするまでにポンと絵が飛んでも感動は絶対なくて、放物線上の動きが見えるからこそ、キャッチしたときの感動があるという、まあ普通のことですが。だから音楽において、音が移動しているように聞こえる工夫というか、「訛り」ながら動くみたいな、そうした動きのプロセスをひとつのフレーズでやっていけたらなと思っています。

というわけで、『ミステリヤ・ブッフ』の音楽では2つのキーワード、「ヒップホップ」と「サーカス」を切り口にいろいろやっていこうかなと思っています。そうすれば最初に言った、空間現代がいつもやっていることと地続きながら、『ミステリヤ・ブッフ』に繋げられるのではないかと、そう思っています。
それではこの辺でそろそろ終わりにしたいと思います。ありがとうございました。

 

 

=休憩=

 

 

デモンストレーション マヤコフスキー『ミステリヤ・ブッフ』より

 

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撮影:松見拓也 All photos by Takuya Matsumi



[1] 参照:浦雅春「チェーホフとヴォードヴィルの世界」ロシヤ語ロシヤ文学研究11号, 1979,73-85頁。http://ci.nii.ac.jp/els/110001256674.pdf?id=ART0001635436&type=pdf&lang=en&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1442856429&cp=