『罪と罰』特設サイト企画
ドストエフスキーは演劇じゃない
三浦:サンクトペテルブルグにいらっしゃるロシア人の演出家の人で、僕の芝居をサンクトでやるときは結構観てくれて感想を言ってくれるご老体がいるんですけど、その人に、今度『罪と罰』をやるっていったら、「あれは演劇じゃないんだよ」って言われたんですよね。つまり「ドストエフスキーっていうのは劇的要素はゼロなんだ。だから何か仕掛けをこしらえないとできないんだ」って言われた。それはするどい指摘だなと思っていて。つまりナボコフがドストエフスキーは劇作家になればよかったのにと言ったのは有名なエピソードだけれど、僕はドストエフスキーは劇作家にはなれなかった、小説家だったと思うんですよね。だからさっきの『カラマーゾフの兄弟』で言えば、イワンを一人抜き出してそれを劇にするっていう発想がない限り、全体像を一つの舞台で見せるのは極めて難しいと思う。もしこれが映画だったら、映像、つまりリアリズムを踏襲した、風景描写もする。『罪と罰』で言えばシベリアまで行ってちゃんとやるとか、それだったら長編として成立するんだけど、舞台の場合はドラマ性という意味においては、ドストエフスキーの小説は有名な分、やりにくい。ある意味、相当、捏造をしないとできないんじゃないかなっていうことは一つあるよね。
伊藤:そうですね
三浦:ストレートプレイだろうと象徴主義の演劇であろうと、本来俳優は正面向いて、つっ立ってぼーっと喋れないといけない。今回は大きな空間を使いながら、昨日見てもらったように、目まぐるしく人が行き交っていて、せっかく喋ってる奴がいるのにそいつの話を妨害することによって、観客が少し聞き耳を立てるようなシステムにしたい。これも初めての試みなんですけどね。
『悪霊』を演出した時は、走ることを前提にして、ずっと走りながら喋ってたけど、今回はずっと歩き回りながら、喋る人はひざまずいて懺悔するようにしか喋れない。だけど誰も聞いてくれない、というのが、僕が今考えている仕掛けです。そういうことをしないとなかなか難しいよね、ドストエフスキーの芝居って。
伊藤:そうかもしれないですね。
三浦:DVD があるんですよ。ロシアのテレビドラマシリーズの4枚組全8話の『罪と罰』。これが素晴らしくて、テレビドラマの域を超えていて、映画といっても全然遜色ない。全部きっちりやっているから、あれを観ちゃうともう演劇なんかにする必要ないよって思っちゃう。あれと同じような勝負の仕方してもダメだなって。
伊藤:ドストエフスキーを舞台化しようという発想になったらそうなりますよね。ドストエフスキーをジャンプ台に新しい舞台をつくるってという形にならざるを得ない気はします。20世紀初頭のジャック・コポーが『カラマーゾフの兄弟』をフランスでやるって戯曲化したんですよ。でもあんまりうまくいってなかったですね。
ドストエフスキーの面白さ
三浦:ところでドストエフスキーは好きなの?
伊藤:中学生、高校生の時は寝ずに読むくらいでした。入りやすいじゃないですか。入りやすいというか、一回入ると抜け出せないので、入り込んじゃうと、もうそのまま読み続けて朝になる、みたいな読み方をしてましたね。
三浦:何が好きですか?
伊藤:僕は『カラマーゾフの兄弟』が好きです。
三浦:やっぱり『カラマーゾフの兄弟』が一番いいんだよね、ぶっちゃけ。
伊藤:いや、でも人によりますよ。『悪霊』がいいっていう人もいるし。
三浦:『悪霊』か『カラマーゾフの兄弟』になっちゃうんじゃない。でも『罪と罰』が一番有名であることなのは確かでしょ。
伊藤:日本ではそうですね。中学生高校生が一番同一化しやすいのはラスコーリニコフですよね。
三浦:だよね。あと『白痴』も素晴らしいよね。
伊藤:素晴らしいですね。四大小説って言われたり、『未成年』を入れて五大小説って言われたりもするんだけど、その中では僕の感覚では『罪と罰』と『未成年』はちょっと一段落ちて、『白痴』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』。
三浦:登場人物の充実具合が違うもんね。一段落ちるっていうのは、例えば『罪と罰』だとラスコーリニコフ、一本で勝負するじゃん。だからまあ構図が単純なんですよね。
ちょっと脇道にそれるけど、カウリスマキが『罪と罰』を現代版に置き換えてつくっていて、処女作としてはすごい才能だと感心したんだけど出来としてはそんなに良くない。でも気持ちはわかる。主人公のラスコーリニコフが青年じゃなく、意外とおっさんでびっくりしたんだけど、肉屋で働いていて、ソーニャとかドゥーニャは全部織り交ぜた一人の女の人になってるんだけどね。ちょっと脚色していて、最終的にラスコーリニコフは刑務所に入って、一切ソーニャ的な人と和解しないんですよ。独房に入ったまま和解せずにちょっと音楽が流れて終わるっていうね。あそこがやっぱ気になったんだよね。一つの回答だと思うし。その結末について、伊藤さんが、読んだ時にどう捉えてるのか。つまり『罪と罰』って、サスペンスとも読めるし哲学小説とも読める。思想小説としても、歴史小説としても読める。いろんな読み方が複合的にあることは確かだけど、いずれにせよあの主人公の男と女の関係のラストがどうなるのかが意外と解釈が分かれる。エピローグでも作者のドストエフスキー自身は、なかなかそこまではうまく明快な答えをくれてないんですよね。それぞれの答えがあるということだと思うんだけど、伊藤さんはどういうのを見たいのかなって。
伊藤:カフカの短編で『判決』という作品があって、あらすじもよく覚えていないんですけど、最後の場面で、橋の上から川に飛び込む。その後に無限の雑踏の音が続いた、みたいな一文があって。それとラスコーリニコフが地面に口づけする場面がすごく重なったのを、今思い出しました。あの場面でやっぱり雑踏の音がすごく強く聞こえる。それまではラスコーリニコフが中心で、俺が俺がっていう小説なんですけど、そこで突然世界が反転するというか、ラスコーリニコフが主人公じゃなくなるっていう経験は、幼かった僕にとってはかなり大きかったかな。当時は、同一化するように読んだので、自分はいつ老婆を襲えばいいんだろうみたいな(笑)それくらいの想いになっちゃって、夢中になって読んでたんですけど、あの場面で突然突き放されるというか、そういう感覚の強烈さみたいなのはありましたね。
三浦:今の話でいうと、ラスコーリニコフは、現代的な見方をすると引きこもり的な、ニートと捉えていいと思うんですよね。それが罪を犯すことによって初めて、街に出て行って、人と出会っていくというドラマになってるんですよね。あえて罪を犯すという設定をおいたことによって、人の言ってることが気になったりと、どんどん関わっていくんですよね。その中でマリア的なるソーニャという人に出会っていく。それは宗教と出会っていくというか、世界観と出会うってことだと思うんです。その部分が中心なんだけど、最後どうなるのってなった時にいきなり、大地に口づけしなさい、恥を晒しなさいってことになって、恥を晒した瞬間に無視される。雑踏の中に埋もれていくっていう、そこは鮮やかな小説だと思うんだよね。自意識がなくなっていってしまう、自我がなくなっていく。
スタニスラフスキー・システムからの脱却
三浦:ロシアの演劇は比較的見ている方だと思うんですが、僕はロシアは演劇先進国だと思っていて、いろんな演出、つまりコンテンポラリーなものからクラシックなものまでの幅が広い。数も多い。観る人口も多いっていうのは確かなんだと思う。ただ、僕が気になっているのは、結局はストレートプレイなんじゃないのかといつも思っちゃうんです。ストレートプレイが基本で演技してないですかって。
伊藤:ストレートプレイの対立項に置かれるのはなんですか。
三浦:メイエルホリドかな。いろんなパターンがあることは分かるんだけど、演技の組み立て方とか俳優の仕事っていうところが、スタニスラフスキー・システムから抜け出ていないんじゃないか、あるいは抜け出るとか抜け出ないという発想自体がそもそもないんじゃないかという目で見てしまうんですよね。演出家によってそれこそ構成主義であったり象徴主義であったり、オペラチックであったりいろんなパターンもあるんだけれど、俳優のあり方という考え方は、彼らが自覚しようがしてまいが、意外とスタニスラフスキー・システムそのものがまだ生きてるんじゃないかというのが僕の見方なんですね。僕が演出するときにどこまで彼らと対話できるのか、どういうユニークな作業ができるのかっていうのを楽しみにしてるところです。
伊藤:なるほど。
三浦:この話は日本では難しいけど、ロシアに行くと、そこを見てるし、逆に地点がロシア公演をするときはそこを見られてるんだよね。俳優がスタニスラフスキー・システムじゃないのになぜあんなに感情的になれるのか、素晴らしい!みたいなことが結構褒められたりするんですよね。
伊藤:そんなふうに褒められたりするんですか。
三浦:マグーチー監督もそうですね。彼は、「地点の俳優は心理主義では絶対につくっていないことはわかる。が、しかし、トレープレフはトレープレフだった。ニーナはニーナだった」って言うんですよ。それはまさに感情移入してニーナを生きていた、でもつくり方が全然違うというところを評価するんですよ。いろんな演劇もある中で、その辺がロシア演劇はどうなんでしょう。
伊藤:今の話へのレスポンスはいくつかあるんですけど、一つはまず心理主義とスタニスラフスキー・システムっていうのは、僕の理解では、別のものです。しかもスタニスラフスキー・システムっていうのは、演じ方というよりは、役者の育成、教育法に重きが置かれているような気がしています。そういう意味では、その心理主義に最もハマるかもしれないけれども、他の手法、他の様式で芝居をつくる時にもあのスタニスラフスキー・システムというのは、絶対に有効だという風に思われていますし、実際に僕もそうなんじゃないかなと思っています。なので、ある意味では、スタニスラフスキーのシステムとメイエルホリド的な演出というのは同時に成立するものだと、多分ロシア人の多くも考えてるんじゃないかなと思っています。さらに言うと、スタニスラフスキー・システムというのはさっき言ったように教育とか訓練法の部分でかなり強く活きるので、演劇大学では徹底的に教え込まれるんです。演劇大学もちょっと特殊で自分の指導教官を選んで入学するので、一人の指導教官、マスターの下で俳優であれば四年、演出家であれば五年、それを朝9時から夜10時まで、ひたすらやって卒業していくので、スタニスラフスキー・システムに基づいた教育法はもちろん、自分が師事したマスターの影響は非常に強く受けますね。それ以外の土台の部分っていうのはスタニスラフスキー・システムに基づいた教育法が、今でも、どの演劇大学でも採用されているはずですね。
三浦:BDT(ボリショイ・ドラマ劇場)のマスタークラスも一緒でしたよ。伊藤さんは、ロシア演劇シーンの中でそのスタニスラフスキー・システムが土台になってることは確かだと感じるんですね。
伊藤:はい。
三浦:心理主義は心理主義として一つのジャンルであると。そうなった場合、他のジャンルの言い方、例えばメイエルホリド的なものっていうのは「形式主義」みたいな感じですか?
伊藤:難しいですね。今の時代は、それこそ現代的という表現をするんですが、形式的という言葉はメイエルホリドが生きていた時代には最初はポジティブな意味で、晩年は非常にネガティブな意味で、つまり形式主義と批判される言葉として使われたりしていました。あるいは様式的とか、フォルムが先にあるという意味で言われたりしてきました。
三浦:日本の歌舞伎もそういう批判のされ方をよくするもんね。同じですね、時代の流れによってね。