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ナビゲーターの監修のもと、事前のテキスト解説や作品の背景などをまとめた「鑑賞の手引き」と、鑑賞体験を深める「レクチャー」とで、観劇の楽しみを発見する「観劇観能エクスチェンジ・プログラム」。
全回参加を条件に無料で参加する枠組みとは別に、単発でのお申し込みも受け付けています。

 

観世流シテ方田茂井廣道による実演家ならではの熱い解説がなんとも魅力的な『屋島』『石橋』の回

テキストを丹念に読むことで物語の筋だけではなくその〈作意〉を読み解いて楽しむ『江口』『大蛇』の回

地謡に着目し声の主体が変容していく能楽ならではの劇構造を堪能する『忠度』『春日龍神』の回

 

能を一度この目で見てみたかった、もっと深く知りたかったという方、いっしょに能楽堂に出かけましょう!

 

主催:合同会社地点 助成:公益財団法人セゾン文化財団

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1 道の会『屋島』『石橋』ほか ナビゲーター:田茂井廣道

 

能楽師の修行において節目となる演目を初めて上演することを「披き(ひらき)」と言います。無事に演じることで技量を認められ、演者として「一回り大きく」なるのです。そんな特別の舞台を鑑賞してみませんか? 今回の公演ではナビゲーターをつとめる田茂井廣道先生による重習(おもならい)の『屋島』が上演されます。大事な節目をお祝いムードに包まれる能楽堂で、親から子へ、師匠から弟子へと受け継がれていく能楽の伝統と修行のプロセスに迫ってみましょう。


観能
2019年10月19日(土)11:00開演
会場:京都観世会館(京都市左京区)


プレレクチャー
「能楽師の修行のプロセス〜〈披き〉という仕組み」
2019年9月30日(月)19:00-21:00
会場:アンダースロー(京都市左京区)


田茂井廣道
1970年生まれ。観世流シテ方能楽師。幼少より河村晴夫長じて13 世林喜右衛門に師事。公益社団法人能楽協会社員、同京都支部常議員、同教育特別委員。京都芸術センター主催「素謡の会」「T.T.T.( トラディショナル・シアター・トレーニング)」ナビゲーター及び講師。観劇観能エクスチェンジ・プログラムへは2018 年度に引き続き参加。

 

演目解説
屋島 やしま
「屋島」は香川県高松にある地名。源平合戦において、源義経が大活躍した古戦場である。

 ある年の春。旅の僧が都から屋島に赴く。日が暮れたので、漁翁(老人の漁師)に泊めてもらう。昔の源平屋島合戦ことを尋ねると、漁師は詳しく語って聞かせる。僧はあまりの詳しさに不思議に思い、名を尋ねる。漁翁は「潮の落ちる春の暁は修羅の時、その時に名乗ろう、よし常の浮き世の夢ばし覚まし給ふなよ」と言い残し、姿を消す。夜更け、僧の夢に 源義経が在りし日の甲冑(かっちゅう)姿で現れ、自ら「弓流し」のことを語り、更に修羅の戦いの様を見せる。やがて春の夜が明けると僧の夢は覚め、源義経の姿は無く、敵と見えていたのは鴎(かもめ)、鬨(とき)の声と聞こえていたのは浦に吹く風、高松の朝嵐であった。
 戦いを生業とした武士は、死後、修羅道に堕ちて、日々戦い続けなければならない。その苦しみを訴えるのである。だが、修羅物のうち、《屋島》(源義経)、《箙(えびら)》(梶原源太景季(かじわらのげんだかげすえ))、《田村》(坂上田村麿)の三つは、勝ち戦を扱った演目として、特に「勝ち修羅三番」として能楽ファンには認識されている。《屋島》の作者は世阿弥だろうと考えられている。この名作《屋島》を、重習(おもならい)の小書き(特殊演出)「弓流(ゆみながし)」にて勤めさせていただく。
 
石橋 しゃっきょう
 「石橋」とは、文字通り、石の橋 である。ただ、この石橋は単なる橋ではない。文殊菩薩の浄土に続く橋なのである。
 石橋はどのような橋か。人間の渡したものではなく、自ずから出現した橋であり、表面の幅は一尺(約三〇センチ)にも足らず、苔むしていて甚だ滑らか、その長さは三丈余り(丈は尺の十倍)、谷の深さは千丈余りに及ぶという。上からは滝の糸が雲より掛かり、下は泥梨(ないり)(地獄)と思う程に深い。橋の気色は雲にそびえる風情で、虹の姿、また弓を引いた形、であるという。
 もうひとつ、文殊のお使いといえば、そう、「獅子」である。能《石橋》は、この石橋の上で霊獣・獅子が舞い戯れる、舞い狂う様を見せることを眼目とする能なのである。
 「獅子」は、観世流では《石橋》と《望月》にのみ登場する。《望月》は宿の亭主の獅子舞芸としての獅子だが、《石橋》の獅子は霊獣・獅子そのものの表現である。獅子はシテ(主役)のみならず、各役とも、みな重い習いとされる。獅子が何も持たず、素手で演じるのは、霊獣、文殊のお使いゆえだと聞く。
 
2 金剛定期能『江口』『大蛇』 ナビゲーター:天野文雄

謡本と言われるテキストを携えての鑑賞も観能のスタイルとしては一般的ですが、能はたんに物語を伝えるためのものではないと天野文雄先生は言います。かといって、パフォーマンスがテキストよりも常に優位ということでもありません。能のテキストを丁寧に読むと、その〈作意〉や〈趣向〉を読み取ることができます。より深く作品世界を理解することが、能楽堂での新しい発見をもたらす……。その醍醐味をおぼえたら、能楽鑑賞はやめられない!? 


観能 
2019年11月24日(日)13:30開演
会場:金剛能楽堂(京都市上京区)


プレレクチャー
「能の〈作意〉と〈趣向〉を考える〜『江口』を巡って」
2019年11月19日(火)19:00-21:00 
会場:アンダースロー(京都市左京区)

 

天野文雄
1946 年東京生まれ。京都造形芸術大学舞台芸術研究センター所長。2010 年に大阪大学大学院文学研究科教授を定年退職。大阪大学名誉教授。観世寿夫記念法政大学能楽賞、日本演劇会河竹賞などを受賞。著書に、『世阿弥がいた場所ー能大成期の能と能役者の環境』『能に憑かれた権力者―秀吉能楽愛好記』『翁猿楽研究』『現代能楽講義』など。観劇観能エクスチェンジ・プログラムへは2018 年度に 引き続き参加。

 

演目解説
江口 えぐち

 この世は仮、それゆえ現世に執着してはならないというメッセ-ジをもった作品です。本曲の舞台江口は、淀川から神崎川が分かれるあたり、平安時代には京都と西国をつなぐ要衝として栄えた湊です。『江口』が世阿弥によって作られた頃にはすでにさびれていたようですが、かつての江口には多くの遊女がいて、貴人の船などに小舟を寄せて春をひさいでいました。本曲の主人公はその江口の遊女たちを統率する「長(ちょう)」と呼ばれる女性ですが、彼女は実は普賢菩薩の化身であって、前半では一介の里女として、後半では昔の華やかな遊女の姿で舟に乗って、都から来た真摯な求道僧に、一貫して「現世における執着からの脱却」を説くのです。前半の里女は、昔の西行と江口の長の歌の贈答を取り出して、この仮の宿に心を留めてはならないと諭し、後半の長は、人が永遠に輪廻という運命から抜け出ることができないのは、迷いだらけのこの仮の宿に心を留めるからだと諭して舞い、「そう説く自分がいつまでもここに留まっているわけにはゆかない」とジョ-クをとばして普賢菩薩として西の空に去ってゆく。まことに洒脱な観念劇と言ってよいでしょう。
 
大蛇 おろち 
  本曲に登場するのは、素盞嗚尊(すさのおのみこと)、稲田姫、稲田姫の両親(手摩乳(てなづち)、足摩乳(あしなづち))、そして八岐の大蛇などですが、これだけでも本曲が、人口に膾炙している、素盞嗚尊が出雲の簸(ひ)の川上に八艙の酒舟を浮かべ、十束の剣で大蛇を退治した神代の物語を素材にした能であると察しがつくでしょう。この話は『古事記』と『日本書紀』にみえますが、本曲はもっぱら『日本書紀』に拠ったようで、「啼哭(ていこく)」といった固い言葉も『日本書紀』にみえます。作者は世阿弥より一世代ほど後の観世小次郎信光ですが、同じ能とはいえ、時代や作者が違えば、当然、その作風も異なります。前半のシテは手摩乳ですが、後半のシテは別人格の大蛇で、一曲はワキの素盞嗚尊を中心に展開します。つまり、「能はシテ一人(いちにん)主義の演劇」だとした野上豊一郎の指摘があてはまらない作品なのです。また、本曲では、尊は大蛇退治の前に稲田姫を娶り、「和歌の始め」とされる「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに」の歌を詠んでいますが、そのことは『古事記』や『日本書紀』では大蛇退治のあとに置かれています。これによって、わが国の創成と文化の誕生をも描こうとしたわけで、本曲はたんなる大蛇退治のスペクタクル作品ではないのです。
 

3 林定期能『忠度』『春日龍神』 ナビゲーター:藤田隆則


シテの台詞を地謡が謡う? ワキも地謡の一員だった? 日本伝統音楽研究センターの藤田隆則先生によると、現在「地謡」と呼ばれている多人数合唱の歴史を紐解くと、演出により声の主体が変容しているのがわかると言います。鑑賞する『忠度』を題材に、声の主体の変容とはどういうことかを具体的に考察します。今後、能を見るときにはそれが「誰の声」なのか、気になるかも!?


観能
2019年12月8日(日)12:30開演
会場:京都観世会館(京都市左京区)

 

プレレクチャー
「能の音楽的基盤〜声と主体の変容」
2019年12月3日(火)19:00-21:00 
会場:アンダースロー(京都市左京区)

 

藤田隆則
1961年山口生まれ。能をはじめとする日本の中世芸能および宗教儀礼の、音楽的側面を中心とした様式研究、および、古典音楽・芸能の伝承・教授システムの研究を行う。ミシガン大学日本研究センター招聘教授等をへて、2005 年より京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター助教授。2012 年より教授。

 

演目解説
忠度 ただのり 

 典型的な夢幻能である。花鳥風月さえも仏道の障りとなるものと考え、捨て去ろうとしている僧侶(ワキ)。その僧侶の前に一人の老人(前シテ)が現れ、須磨の浦の数々の景物を和歌と重ね合わせながら、うたう。一夜の宿を乞う僧侶に対して、老人は、桜の花の木の蔭で、桜の花を宿の主人と見立てて一夜を明かすようにすすめて、消える。やがて、旅寝する僧侶の夢の中に、平忠度の幽霊(後シテ)が出現する。須磨における自らの最期となる戦い、千載集に収められた詠み人知らずの歌「行き暮れて木の下蔭を宿とせば花や今宵の主ならまし」の本当の作者が、忠度自身であると判明した場面を、物語る。そして僧侶に向かい、実際に、木陰を宿としたわけだから、花こそが主であるということが、よくわかったであろう、と説いて消える。
 この作品の見どころのひとつは、後場における忠度の幽霊による物語の場面である。忠度の幽霊は、自らの最期を物語るさいに、自分の視点から見えていたことだけではなく、自分の命をうばった相手方、岡部六弥太に見えていたことまでも描写する。そして忠度の幽霊にふんする舞台上のシテは、忠度の姿のままで、忠度に斬り付ける岡部六弥太をも演じる。さらに忠度の幽霊は、岡部六弥太が自分の死骸を見る場面、そこで発見したもの、つまり忠度の死後の時間に起こったことまでも物語る。こういった一人物の視点と時間を超えた物語が、地謡というシテの外部の声によって舞台を満たすことになる。物語を響かせている声は、忠度という人物の境界をこえて、忠度のおかれた状況、あるいは風景の声となっていると考えたい。
 
春日龍神 かすがりゅうじん
 能の中には、現実の生きている人物が主人公となって、その行動や生きる場面が描かれるという種類の「現在能」がある。例えば能《安宅》は、弁慶が義経を引き連れて、奥州へと逃げていく行動と場面とを描く能である。ご存知のとおり、《安宅》では、弁慶が祈祷を始めても神は出てこない。しかし、現実の人物を主人公とする能には、神が救済役として登場する作品もある。たとえば《小鍛冶》は、刀鍛冶の宗近が、王の命令をうけて名刀を完成し献上する行動と場面を描く能だが、刀打ちの作業を助ける役として、稲荷の明神の使いが出現する。その使いは、シテ、つまり舞台の中心でもっとも強く焦点があたる役として登場し、演技する。一方の宗近は、ワキと呼ばれる役で、舞台上での動きはシテに比べて少ない。だが、宗近なしにこの作品は成立しない。同じように《春日龍神》も、ワキが扮する現実の人物、明恵上人なしには、成立しない。明恵上人は、中国留学に向かう前の挨拶のために、奈良の春日へと参詣する。その明恵の前に龍神が出現する。明恵は結局、龍神に説得され、中国留学を諦める。龍神の存在がより大きく扱われるという意味では、この能は、構造的にはいわゆる夢幻能に近い。しかし、明恵上人の留学の意思が行動としてしめされなければ、劇は成り立たない。超自然的な神がシテとして活躍する能であっても、現実の生きている人物の行動を描く「現在能」のその「現在」が、根底にあることを忘れてはならない。
 

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すべての演目で手引き+鑑賞+レクチャーの一連の参加を受け付けます。
*金額にはチケット料金・鑑賞の手引き・レクチャー受講料が含まれます。

 

 

演目

会場

料金

能楽

①道の会『屋島』『石橋』ほか

京都観世会館

一般(1階指定席)¥9,000
(2階席)
¥6,000

学生(2階席のみ)¥4,000

②金剛能楽堂『江口』『大蛇』

金剛能楽堂

一般¥6,000
学生¥3,500

③林定期能『忠度』『春日龍神』

京都観世会館

一般¥5,500
学生¥3,500


お申込み:件名を「観劇観能エクスチェンジ・プログラム申込み」とし、kangeki@chiten.orgまで、①お名前、②ご住所、③ご連絡先お電話番号をお知らせください。返信をもってご予約完了となります。