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劇団CHITEN

2025 アンダースロー / 撮影 : 松見拓也

演劇ブルペン修了公演『かもめ』

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私の考えでは、お芝居にはかならず恋愛がなくてはいけないと思うの

作品概要
演劇人のゆで卵たちと共に演劇を実践するプログラム「演劇ブルペン」の第一回修了公演として、チェーホフ作『かもめ』を8年ぶりに上演。地点でもたびたび取り上げてきた本作だが、初めて神西清訳ではなく浦雅春訳を用い、かつてトレープレフを演じた小林洋平はソーリン役に。トリゴーリンとアルカージナの不在により、登場人物たちの関係を改めて照らし出し、若い俳優たちによる新鮮な『かもめ』が立ち上がった。

演劇ブルペンで『かもめ』を選んだ理由

もう30年も昔の話ですが、私は18歳から22歳の4年間を演劇の大学で学びました。実技の授業が大半を占め、エチュードの課題や発表会の稽古で、毎日、喉が乾いていました。例えると、砂漠で天敵から必死に逃げる小動物のような者でした。もちろん私の天敵は、課題を発表しなければならない火曜日と木曜日の授業であり、年に4回ほどやってくる発表会の初日です。逃げると言っても、決して授業や初日を欠席するというわけではありません。ちゃんと課題をこなし、ちゃんと台詞も全部覚えて舞台に立っていました。これは決して自慢ではなく、私は優等生だったと思います。でもやはり今、思い出しても逃げまくっていた感覚は拭えません。

では、若き演劇青年であるところの私は、何から逃げていたのか?

おそらく意味からです。どうしてタイツを履いて膝を上げるのか、どうして正座して謳うのか、どうしてタヌキが喋るのか、どうして祈祷するのか、どうしてバスは来ないのか、どうして君とキスするのか、どうしてハムレットなのか、その意味をいちいち考えていたら絶対に卒業できなかったと思います。私はなりすまして演劇をやっていたのです。私だけでなく周りの人間も少なからずそうだったと思います。この作戦をとったのは学生だけではなく大人の先生にも数多く見受けられました。もっと言えば、発表会を見に来る知人友人、親類縁者の観客だって大抵がそうでした。今、私は誰かを批判したいのではありません。演劇は意味を考えると辛くなる傾向にあるということです。だから一旦は、全員がなりすます。伝統、習慣、社交といったものが、思っている以上に力を持つ芸術だと言えます。

「こういうものだから」という言い聞かせの気配は、全員を意味から遠ざけます。演劇は、いつの時代でも、どこの国でもこの気配が蔓延しているのです。ひとたびでも、意味を問うたら茨の道を進むことをやはり全員が知っているのです。「演劇はよくわかりませんから」と、特にこの国でよく耳にするのは、なりすましに対する温かい応援かもしれませんが、距離をとるための便利な知恵でもあります。さすがに当時の私は演劇を知るために努力しましたが、その意味を問うことを先送りにしていました。もちろん後ろめたさは満載です。一生懸命、音楽に合わせて上手から下手へ駆け抜け、目の高さで扇を開いては悠久を感じ、民話なのでと濁声で訛り、腹式呼吸よろしく手には数珠、神様は来ないのだと遠い目、いつ目をつぶるのかとびくびく歯を磨き、ついに「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」と浸ってみたりする羽目なのですから。恥とは、「こういうものだから」で消えます。なりすまして演劇をやるということはこれだけの嘘をつかなければ、できないのですからそれはそれで大変なのです。

しかし、とうとう私は逃げきれずに捕まります。あれは火曜日でした。

君は自分の道を見つけて、自分がどこに向かっているのかは分かっている。ところが、ぼくときたら、相も変わらず混沌とした夢とイメージの世界を右往左往するばかりで、なんのために誰のためにこんなことをしているのか、それが分からないでいるんだ。ぼくには信じられるものはないし、何がぼくの使命であるかも分からない。

THEチェーホフの、THE『かもめ』の、THEトレープレフの名台詞を覚えなければならないとき、私は奇妙に納得したのでした。はじめて戯曲というものが身近に感じられ、ひどく分かったような気持ちになりました。これが演劇か? この台詞なら嘘をつかずに言える、と喜びました。しかし、現実は残酷で火曜日の授業での私は散々なものでした。先生と皆の前で何度も台詞をつかえては言い直すザマでした。なりきれてもいない、なりきり演技の惨敗でした。私は、リアリズムという名の役作りの罠にまんまとはまり、自意識過剰のナイーブなただの勘違い学生に過ぎませんでした。恥ずかしかった。恥ずかしかった! この苦い経験が、卒業後の私をついに演劇の意味へと押し出したのです。必然的に演出家になっていました。これは本心ですが、私は、恥をかく役者たちをなんとか救出したいといつも思っているのです。「こういうものだから」の気配を「そういうものではない」と宣言しなければ一生、恥をかく。

先の台詞は、よく解説にあるような真の芸術とか真の恋愛に挫折した若き青年の苦悩で片付けられるような代物ではなかった。そこで立ち止まる限りは、あの火曜日の私のように、浅はかな感情移入で恥をかく。〈真〉というのは、まさに台詞にある通りの〈信じられるもの〉だとして、それがそもそもあるのか、という決死の問いであり、葛藤であり、だからこそ、この青年は自殺を賭けてまで元恋人に確認する。この確認を巡って、演技はやっと自由になる。あの台詞で、ナイーブに苦悩してみても意味がない。そんなことをしている場合ではない。確認の方法はいくつかあるはずだ。彼女をせせら笑って心底バカにしてみるのもよいし、怒りのあまりにどなり散らしたってかまわない。もし怒りで行くのだとしたら、その相手は彼女だけでは不足だろう。〈信じられるもの〉を相手にしなければならなくなる。名声、世間、信念、そして信仰とやらを。日本人だからといって「演劇はよくわかりませんから」と言っている場合でもなくなる。この青年は、銃を隠し持っている。その上で、私たちに確認している。それがそもそもあるのか、と。意味の発動だ。あなたには〈信じられるもの〉があるのか、という駆け引きだ。もう役者は意味に乗っている。恐れることはない。好きに立ち振る舞えばいい。役者の個性とはここまできてようやく口にできることだ。火曜日の私が演じていたものは、何者でもなかった。三浦でもないし、もちろんトレープレフでもなかった。誰ひとり殺すこともできなかった。THEという「こういうものだから」の囲いの中では、役者は役者になれずに死ぬ。舞台で役者は生きなければならない。その生きる役者こそが、自ら演じるトレープレフを殺すとき、はじめて私たちは驚く。心が動く。寂しくもなる。切なくもなる。そして、うれしくもなる。演劇があった。フィクションが現実を更新する瞬間。茨の道を進んだご褒美だ。私はあのご褒美が欲しい。何度だって欲しい。

演劇ブルペンは、演劇を志す若者たちの集まりです。もちろん『かもめ』をやったからといって必ずしもあのご褒美がもらえるとは限りませんが、確率は高いと踏みました。彼ら、彼女らと、そして観客の皆さんとそれを分かちあえたら、どんなにか幸福だろうと考えた次第です。乞うご期待です。

あ、ここまで語っておいてあれですが、私にとっては、あの火曜日への復讐劇となります。

三浦基

  • 2025
    日程・会場
    2025.3.19-3.23 アンダースロー
    アントン・チェーホフ
    翻訳
    浦雅春
    演出
    三浦基
    出演
    秋元隆秀
    石川千紘
    岡野優那
    川上進清
    山西由乃

    小林洋平
    演出助手
    大田陽彦
    制作助手
    近江就成
    インターン
    薄井快 
    畑中晴日
    スタッフ
    衣装監修:コレット・ウシャール
    照明:藤原康弘
    音楽:古谷野慶輔(空間現代)
    映像:Kim Kyo
    制作:田嶋結菜
    主催
    合同会社地点
    助成
    文化庁文化芸術振興費補助金
    (舞台芸術等総合支援事業(芸術家等人材育成))
    独立行政法人日本芸術文化振興会

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