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劇団CHITEN

2024 The Coronet Theatre / Photo by Mayumi Hirata

グッド・バイ

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一友人から、スタチュ・プレイ銅像演技という讃辞を贈られた。
恰好の舞台がないのである。舞台を踏み抜いてしまう。野外劇場はどうか。
客を大いに笑わせて、さてまた、小声で呟くことには、「サタンはひとりすすり泣く」。
この男、なかなか食えない。

作品概要
『トカトントンと』『駈込ミ訴ヘ』に続く、太宰治の舞台化第三段。生前の作家のポートレートを彷彿とさせる、銀座のバー「ルパン」とも思しき酒場に集った太宰たち。音楽が全篇を通して基調をなし、リズムに導かれながら変奏されていく俳優による「グッ/ド・/バイ」の反復がその都度、様々な決別を浮かび上がらせる。

ダイアローグとしての演劇 太宰治『グッド・バイ』の公演に寄せて 楯岡求美

 

日本の戦中・戦後のディレッタント文学を代表する太宰治は年齢層に関わりなく絶大な人気を誇る作家のひとりである。ギリシャ神話やシェイクスピアなどの古典文学のモチーフを使った作品もあり、多様なジャンルに挑戦した意欲的作家だが、一人称小説をたくさん手掛けている。

一般的に詩はモノローグで、散文はダイアローグとされるが、日本文学にはモノローグの散文ジャンルがある。それは「私小説」である。このジャンルでは、作者自身の生活体験を素材としながら、その中に作者の心境や感懐を吐露していく。だが、ヨーロッパの告白文学とは異なる。告白は見えない神との対話であり、そこには不誠実な私の在り方が弾劾される危機感がある。日本の「私小説」は、自らの弱みをさらけ出し、あなた(読者)だって同じ弱い人間だと訴え、同情と同調を求め、読者との共犯関係・共依存関係を作りだそうとする傾向がある。

日本語には「自立」という概念が薄い。1人称複数は「私+私」というように、「私」と志向を共有するドッペルゲンガーが複数存在する状態として表現される。二人称単数は「ワレ(I)」「ジブン(self)」という一人称として使われる言葉が流用されてしまう。わたしは君であり、君もまた私である。世間は「私」が増殖した複数形として表現される。だから同調しない他者に対して強い不満を感じる。逆に言えば、一人称表現にも他者に承認されたいという欲求が潜在的に隠されている。このように、文法用語の「一人称」は、英語と日本語とでニュアンスが実は異なっている。

太宰治は一人称語りの「私小説」の形式を用いながら、読者に語り掛けることで、「総じて日本人ならば同じ気持ちになるはずだ」というホモソーシャルな関係性を想定する当時の日本文学にダイアローグを持ち込もうとした。自分を気取りすぎて不格好な人間やダメ人間としてわざと自己卑下し、「“優秀な”読者には私の気持ちがわかるまい」と読者の同調を拒否する。自己を否定的に語ることで複数化しやすい日本語の「私」をいったん孤立化させ、主人公である情けなさや疎外感を強調することで、「私」が単数であることを際立たせ、同時に主人公のユーモラスでアイロニカルな道化的語りは物語をバフチンの言うカーニバル的な空間へ開く。弱肉強食の近代社会に適合できない主人公のあがきは、戦中は軍国主義に、戦後は物質主義の自由主義に迎合する社会的エリートたちの非人道的ふるまいを逆に際立たせる。

この芝居でバンド「空間現代」が奏でる音楽は登場人物たちの感情を補足するBGMではない。その音楽自体が自らの命を紡ぐ、重要な登場人物のひとりと言ってよいだろう。俳優たちが演じる登場人物たちは様々な人生上の事情を抱えつつも酒場に集って音楽にのりつつ酒を飲む間はまるで気心知れた仲間のようだ。けれども、リズムにノッて体を揺らしつつ、考えていることは実はバラバラだし、ドアを開けて外に出れば、何の共通点もないバラバラの個人である。パブに集う人々の個別の悲しみは体の奥底に隠されていて、その顔からは読み取ることが出来ないように、そのリズムも、偶然そこに居合わせたバンドからの借り物なのだ。音楽を聴くとき、芝居のセリフを聞くとき、観客も音楽やセリフが自分の思いを代弁してくれることを期待したり失望したりする。なんとも身勝手だけれど、自らリズムを作り出せない個人は他者のビートに合わせるしかない。それは明文化されない流動的なコモンセンスに自分の価値観を合わせていくことに似ている。

俳優たちが同じリズムで一体感を生み出したところで、偶然の音楽に個々の思いを同一化させることはできない。バンドもまた、個々人の思いを引き受けることを拒否するかのように、音を断ち切って、登場人物たちに肩透かしを食わせる。では、暴力が席巻し、コモンセンスの方が人間性の旋律から外れている社会で個人はどう生きたらよいのだろうか。

劇団地点のドラマ創作は徹底した対話に基づいている。それは原作の翻訳でも説明でも翻案でもなく、対話である。舞台で俳優たちが演じているのは時系列に沿ったストーリーではなく、原作のことばと俳優、衣装、舞台装置、音楽、照明、演出、ドラマトゥルグの人生とが接触することで生み出される感覚的なイメージのハイブリッドなコラージュである。その声や光のフィルターを通して観客に届けられる言葉が、観客の内面でさらにどのようなイメージを醸造するのか、が地点の芝居の核である。演出の三浦基は彼の演劇論の中で芝居のダイアローグは舞台上の俳優間で行われているのではない、聞き取った観客が言葉を組み合わせて意味を生み出すのだと述べる。ここに新しい観劇のスタイルがある。

これまでの劇場は、学校の教科のように、観客が受動的に与えられたストーリーを読み取るというテストを受けていたようなものだ。だが、これからは、舞台の言葉を聞き取った観客たち自身がインスピレーションを最大限に活性化し、作家の、俳優たちの言葉を、そこに透けて見えるコモンセンスをアイロニカルに批評するアクションを起こす。観客それぞれが思い思いに舞台のセリフとのダイアローグを行う創造としての観劇である。同じ芝居でもその日のコンディションで観客が受け取る言葉、考える言葉が変わっていく。見るたびに新しい芝居。それがこれからの演劇創造だろう。このようなオープンエンディングの鑑賞は原作の文学作品でも実は同じなのかもしれない。観劇も読書もまた創造行為なのである。

出典:当日パンフレット

  • 2018
    日程・会場
    2018.12.13-16 京都芸術センター 講堂
    2018.12.20-27 吉祥寺シアター

    原作 
    太宰治
    演出
    三浦基
    音楽
    空間現代
    出演
    安部聡子 
    石田大 
    小河原康二 
    窪田史恵 
    小林洋平 
    田中祐気 
    黒澤あすか
    スタッフ
    美術:杉山至
    衣裳:コレット・ウシャール
    衣裳製作:清川敦子
    照明:藤原康弘
    音響:西川文章
    舞台監督:大鹿展明
    宣伝美術:松本久木
    制作:田嶋結菜
    主催
    合同会社地点
    助成
    文化庁文化芸術振興費補助金(舞台芸術創造活動活性化事業)
    独立行政法人日本芸術文化振興会 
  • 2020
    日程・会場
    2020.12.18-19 愛知県芸術劇場 小ホール
    主催 
    愛知県芸術劇場
    合同会社地点
  • 2021
    日程・会場
    2021.12.9-13 吉祥寺シアター
    主催
    合同会社地点
    助成
    文化庁「ARTS for the future!」補助対象事業 
  • 2024
    日程・会場
    2024.3.5-9 The Coronet Theatre(ロンドン)
    出演
    安部聡子 
    石田大 
    窪田史恵 
    小林洋平 
    岸本昌也 
    黒澤あすか 
    増田知就 
    主催
    合同会社地点
    助成
    舞台芸術等総合支援事業(国際芸術交流支援事業)
    独立行政法人日本芸術文化振興会

劇評

世界の名だたる文豪たち、チェーホフ、ドストエフスキー、シェイクスピア、ブレヒト、イプセン、太宰治らの小説、戯曲を新たに脱構築、再構成して今日の観客にヴィヴィッドに響く作品を作り続けている演出家で京都を拠点に活動している劇団地点の代表、三浦基。

この度、太宰治の未完の絶筆「グッド・バイ」を軸に敗戦から作家の死までの間に書かれた小説を織り交ぜ創られた地点の人気作「グッド・バイ」が英国ロンドンのコロネット劇場(The Coronet Theatre)で上演され、前売りチケット完売日が続出、盛況のうちに5日間の公演の幕を閉じた。

今年開館10周年を迎えるコロネット劇場はアンティーク市で有名なノッティングヒルにあり、商業劇場が建ち並ぶウェストエンドとは一線を画し、海外の優れた作品を多く上演する劇場として年々そのプログラムに注目が集まってきている。

2012年にグローブ座ロンドンの依頼でシェイクスピアの「コリオレイナス」をロンドンで上演している地点。三浦が作り出した編み笠姿、フランスパンをかじりながら周りの人々に悪態をつく虚無僧のようなコリオレイナスは英国で通用している荒くれ者将軍のイメージとはかけ離れ、異彩を放った。結果、従来の一辺倒なシェイクスピア劇の解釈に新たな光を当てることに成功し、高評価を得たという過去がある。

今回、地点にとってロンドン上演が2回目となった太宰作品のコラージュ「グッド・バイ」はシェイクスピアとは違い英国人にはあまり馴染みのない題材ではあるものの、敗戦を経験し、死を目前にした作家の —三浦が言うところの— “明るい絶望”は今の世にあって万国共通のテーマであるのかもしれない。
京都を拠点に活動し、地点とのコラボレーションも多い3人組のバンド「空間現代」のオリジナル楽曲、ライブ演奏が地点の役者たちの音節で区切り、独特の強弱をつけた発語と見事に共演していて、英国の観客たちはその音楽性にも惹かれたのは間違いないだろう。

英国の観客たちは地点をどう見て、そして楽しんだのだろうか。現地のレビューから探ってみた。

(BroadwayWorld) ★★★★
“日本の実験的な劇団が驚くかたちの太宰治(作家)賛美でロンドンに上陸”

日本の劇団地点による刺激的で詩的な本作は太宰治の人生、そして彼の文学作品のスナップショットをまとめあげた作品。リズミカルで反応が鋭敏なキャストたちが東京のバーカウンターに座っている。彼らが酒のグラスを高々と掲げる都度に、太宰が差し迫った死(自死)に近づいているという緊張感が高まる。

*****

今こそ本物を鑑賞しよう。日本の実験的な劇団地点が日本の前衛をロンドンに紹介してくれた。 この実存主義的ライブ音楽演劇は日本の最も偉大な作家の一人、太宰治をシニカルな賛美でもって讃えている。…この舞台は今現在上演されているどのステージでも味わうことのできない唯一無二の観劇経験を提供してくれる—もしかしたら、それは多くの商業演劇のファンにとっては望まないものなのかもしれないが。 テキストはことば、そして会話の断片化により特徴づけられていて、舞台は太宰と観客との対話というスタイルをとっている。ストーリー、ジェンダー、言語というものを超えたところで、典型的なドラマ構造に挑みながら念入りに作り上げられた煽動をうまく機能させるシステムを作り出している。
テキストはあらゆる驚きに満ちていて、人生を生き延びる対処メカニズムがいったん整うと、太宰の社会政治批判が大胆な自信とともに現れ出てくる。 役者たちは作家思考の伝達者となり、キャラクターや役といった古くからの(役者の)概念から外れる。

*****

三浦基演出のこのプロジェクトは紆余曲折を繰り返しながら、自殺の利害、それに伴う非難にまで足を踏み込んでいる。三浦は戦争批判と絶え間ない耽溺の動作を結びつけ、生き残りと自殺の間にとても魅力的な並列を作り出している。

******

(ステージから少し離れた一段上のところで演奏している)バンドが周期的に演奏を中断すると、下段のコーラス(役者たち)はしぼんだようになり、そして周期的な反復的な音楽を始める。このようなペースと流れの変化は主題と話ぶりに適合しているだけでなく、意識の潤滑な流れを人間的なものにしている。舞台上の登場者がみな次第に酔っぱらっていく中で、太宰の思いは彼の嘲笑的な観察眼を持ちながら世を捨てる理由を探す。陰鬱なジョーク、頑固なタンジェント、エモーショナルな思い出の回想のあと、あなたは新たに見つけたシニシズムと一緒に人生に対する独特な感謝を胸に劇場をあとにすることだろう。

(Morning Star)★★★
“日本の作家太宰治のイマーシブ(没入型)な作品の延々と続く不協和音にすっかりやられてしまった!”

著名な作家太宰治が1948年に発表した未完の小説を軽度に翻案していて、人生に幻滅している男が友人や以前の恋人たちに会い出向き別れを告げ、そして自らの死を計画するというストーリーになっている。酔いが回るにつれて日本人とは何者なのか、という問いが重きを増してくる。伝統的な文化や価値に依存しながら破壊された戦後の社会にとって、グローバリゼーションの勢いは過去や個人のアイデンティティをしっかりと形成していた社会からの無慈悲な断絶なのである。

******

日本で実験的な劇団として常に先を行く劇団地点がバックにロックバンド空間現代を従え、極めてイマーシブな観劇経験を提供してくれた。それは典型的な演劇の上演、つまり字幕のついた会話の断片が圧倒的な音(楽)から切り取られているようなものと言うより、ワクワクするバーにいるような感覚だった。
それぞれに違った個性を示した7人の役者たちは今風の衣装を着て劇場ステージ幅いっぱいに設置されたバーのカウンターに陣取っている。一連の統制がとれた視覚イメージ、繰り返される型にはまった動き、そして個々のパフォーマンスの連鎖、一方で同じフレーズを繰り返すコーラスと彼らの人生についての高揚した見解がバンドのパーカッション的伴奏となっている。 と、このように75分のパフォーマンスは演劇でありながら同時に音楽ライブのようであり、詩の朗読会のようでもある。 自殺願望、宗教的信念、政治的傾向、恋愛・人間関係が強烈なビートにのって、不協和音フレーズと一緒に炸裂している。ユーモアを感じさせる瞬間もあるが、それよりも、その激しさ、ペース、そして絶え間ない連続という作品の活力が何かを考えさせる暇を与えない。 時計の精度を有した三浦基の演出、そして役者たちは太宰作品の強烈さを表現するためにたっぷりと油をさした機械のようにフル稼働で演じている。そしてその絶え間ない性質は作家の小説の感受性を必ずしも評価するものではない。

(Theatre, Films and Art reviews) ★★★
コロネット劇場に入って「グッド・バイ」の美術を見た瞬間、ピナ・バウシュの「カーネーション」のセットを見たときに受けた強烈なインパクトを思い出した。 精密で明瞭な発語と動き、そしてステージの上にいるロックバンド空間現代のライブ演奏、とくれば伝統的な西洋演劇と いうよりもヴッパタール舞踊団の方に近いと言えるのではないだろうか。実験的な劇団地点の舞台は会話劇よりもスペク タクルで刺激に満ちている。
どうやら字幕がうまく働いていたかどうか(観客の位置により)がコロネットの観客たちの評価を分けたようだ。 日本文化への理解度(または不理解度)が重要なポイントであったことも確かだ。断片のコラージュのようなテキストに は地理的、文化的な日本関連の内容が散りばめられているのだが英国人の観客たちには難しすぎたようだ。 聖書の引用、古代ギリシャ、フランス革命、形而上学的な不安、それら全てがバンドの反復するロックのリズムに対抗して発せられる言葉の不協和音の中でクラッシュしていた。

グッド・バイ@ロンドン、コロネット劇場 京都から世界へ
jstages.com

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