2003 京都芸術センター / 写真:平野愛
Jericho2
三人しかいない稽古場には、奇妙な興奮があった。私は、日本語と仏語で俳優に話しかける。どんな些細なことでも両国語で繰り返すように心がける。もともと私は稽古場では、おしゃべりで余計なことまで口にし、おしかりを受けるのだが、今回ほど必要に迫られてよくしゃべったことはない。試しに経済化を図るため、イングリッシュでしゃべろうとするのだが、私のイングリッシュはまったくダメで、かえって逆効果になる。また時に、内田さんに仏語で、ピエール君に日本語で話しかけてしばらくお互いに気がつかないこともある。
「ピエール パルティー ドゥ 『テツノアジガスル』 イズ プリュ クリア ウチダサン セイムタイム スコシダケ ネムタクナッテプリーズ ア、ネクタクナッテ エル ブゥ ドフミール ネ」
(ピエール、『鉄の味がする』からもっと鮮明に発音してください、内田さん、同時に少しだけ眠たくなってください。あ、(ピエールに)眠たくなってはエル ブゥ ドフミールね)
この指示は、その内容自体に意味を持たないのであり、お互い了解したいことは、きっともっと別にある。
ことばとは深刻であるがまず滑稽である。
三人しかいなかった稽古場には、終幕を脱稿した松田さんと本気のスタッフたちがやってきた。何か恐ろしいものが産まれる気配を、人は緊張感と呼ぶらしい。しかし、稽古場は相変わらず、ダメなイングリッシュが氾濫し滑稽なのだ。まるで世界がそのように。
三浦基
出典:当日パンフ
-
2003日程・会場2003.7.3-9 京都芸術センター フリースペース作松田正隆演出三浦基出演ピエール・カルニオ
内田淳子スタッフ照明:吉本有輝子
照明オペレーター:福山和歌子
音響:堂岡俊弘
音響オペレーター:奥村朋代
映像:山田晋平
舞台監督:清水忠文
ヴォイス・ティーチャー:池内美奈子
アソシエイト・プロデューサー:川南恵
ストラテジック・プランナー:橋本裕介 蓮行
マーケティング・アドバイザー:立山朱実
ニュースレター編集:田辺剛
広報・宣伝:小倉陽子
宣伝美術:古閑剛
企画・製作:内田淳子&ネットワークユニットDuo -
2005日程・会場2005.4.20-23 Maison de la culture du Japon a Paris(パリ)
2005.5.23-25 THEATRE DIJON BOURGOGNE Parvis St. Jean(ディジョン)翻訳Rose-Marie Makino-Fayolleスタッフ照明:吉本有輝子
照明オペレーター:高原文江
音響:堂岡俊弘
映像:山田晋平
舞台監督:播間愛子
演出助手:Matthieu Carniaux
制作:橋本裕介 Therese Coriou 田嶋結菜主催地点助成文化庁
笹川日仏財団
国際交流基金
財団法人セゾン文化財団
劇評
客席を向いたまま、内田が猛烈な早口で、なんの所作もつけず、故意に平坦な抑揚、不自然なアクセントでしゃべりはじめる。男に薬を塗るところも、それらしい身振りはしない。せりふから感情を奪い、意味をはぎとり、音符あるいはノイズの集積として流れでるままにする。単語おのおのの意味はうすれるが、それを連ねて発話することで、意味を持ったうねりが生じる。(中略)部分部分では何の意味もあらわさない不条理なことばが、あつまって全体をなすと、人間の業と愛情をえがきだす。ダンスの振りのひとつひとつに意味がなくても、それを連ねた動きに意味が生まれるように。そのことの驚きを、この上演をみのがした人に、何よりも伝えたい。観た人にとって、この前衛性と芸術性は、いつまでも記憶に刻まれるにちがいない。
テアトロ9月号
太田耕人
松田のテキストが、いわば不連続な音の破片と化すまでに、徹底的に破棄する演出方法は、これまでの三浦のスタイルと比べて大きな変化はない。だが、共同作業の直接の相手を二人の俳優(内田淳子、ピエール・カルニオ)に限定することによって、彼のもっとも関心をもっているであろう俳優の身体的変容という主題が、かつてないほど明確化され、問題化されていたことは、近年の舞台全般のなかでも、充分に通用する強度を備えていたように思う。おそらくそれは、文化庁による二年間のフランス在外研修と、帰国後の『断章・鈴江俊郎』から『海と日傘』に至る、少なくない〈まわり道〉の体験が、一つの形、一つの答えを見出した〈贅沢〉の成果であったに違いない。(中略)いかにして〈贅沢〉と迂回をもって、貧困化の時代に抵抗するか、という問題意識を具体的に示しえているという点で、『Jericho2』の持つ意味は決して小さくはないのである。
シアターアーツ18号
森山直人
意味のニュアンスを無化し、音階で語ってゆくような独自のせりふ回し。間の取り方も感情よりリズムを重視するが、単に言葉を記号化し節をつけたのではなく、戯曲を丁寧に読解し意味を再構築している。日本語に一部フランス語が交じるが、違和感はなく、微妙な差異がむしろ心地よいハーモニーとして響く。(中略)自分の論理を押しつけるごう慢や、愛憎などの感情から始まる蹉跌(さてつ)や罪、破滅は個人の人生からぬぐい去ることはできない。個の集合体としての社会ではなおさらだ。一組の男女を起点に、人間社会のもろさや弱さをエロスや暴力、戦争、死などのイメージを重ねながら活写した。感情に頼らぬ演技だからこそ、むしろ主題が際立ったと言える。身体と空間の関係がち密に計算された舞台。最小限の凝縮された動きで最大限の世界を描いた、メタファーに満ちた舞台であった。
日本経済新聞2003年7月14日夕刊
九鬼葉子