2021 国際芸術センター青森(ACAC) / 撮影:松見拓也
地下室の人々
ああ、諸君、ぼくが自分を賢い人間とみなしているのは、ただただ、ぼくが生涯、何もはじめず、何もやりとげなかった、それだけの理由からかもしれないのである。二二が四がすばらしいものだということには、ぼくにも異論がない。しかし、讃めるついでに言っておけば、二二が五だって、ときには、なかなか愛すべきものではないのだろうか。
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2021日程・会場ワークインプログレス公演 表現のコモンズ vol.2
2021.1.23-24 ACAC(青森公立大学 国際芸術センター青森)展示棟ギャラリーAテキストフョードル・ドストエフスキー
『地下室の手記』『カラマーゾフの兄弟』『白夜』『死の家の記録』より翻訳江川卓『地下室の手記』
原卓也『カラマーゾフの兄弟』
安岡治子『白夜』
望月哲男『死の家の記録』演出三浦基
出演安部聡子
石田大
小河原康二
小林洋平
田中祐気音楽空間現代スタッフ照明:藤原康弘
映像:松見拓也
制作:田嶋結菜主催青森公立大学 国際芸術センター青森
企画慶野結香
劇評
地下室の人々の奇妙な所作と、奇妙に切断された独特の台詞が、五人の俳優によって放たれる。紅一点の安部聡子の長台詞でいっせいに裸電球が降りてくる。コロナ禍の私たちの世界にあふれ出る汚辱や苦悩がいっとき許しを請うているかのように到来する。冬のACACという場を生かした「地点」の力、音楽(空間現代)、照明(藤原康弘)、映像(松見拓也)も効果的に作用し、ここ数年のなかでも忘れがたい作品となった。
船越素子
(2021年3月5日 東奥日報)
『地下室の人々』のナルシシズムと自己喪失 楯岡求美
芸術センター青森(ACAC)でのワークインプログレスとして上演された劇団地点の『地下室の人々』はドストエフスキーの中編小説『地下室の手記』の舞台化で、奥に向かって湾曲する通路のような細長い展示ギャラリーで上演された。一列に吊るされた裸電球がぼんやり床を照らし、時々星屑のように降りてくる。奥の方に置かれた丸机の上の書き散らした原稿や、架空の論敵に向かって一方的に大声で議論を吹っ掛ける地下室人の様子は客席から直接は見えず、上手の白い壁に丸く映写される。時折横殴りに降る青森の雪がオーバーラップして映し出されると、まるで私たち自身も地下室に閉じ込められ、小さな丸窓から心細く外をのぞいているような生々しい錯覚が起きる。天井の展示用レールの無機質さや、時に水底を思わせる照明も、地下室の閉塞感を強く醸し出す。(中略)半年おいて七月に地点の京都のアトリエ「アンダースロー」で上演された『地下室の手記』が同じ原作なのにまったく違っていて驚いた。京都の舞台は客席部分を含め狭い方丈型で、青森のような奥行きが無く、遠さを出すことが出来ない。そこで客席ギリギリに紗幕をたて、裏からプロジェクターの映像と照明とを複層的に当て、俳優をすべて影にしてしまったという。生身の人間が演じ、客席と時空間を共有するという演劇を存在させるルールを壊すぎりぎりの演出である。(中略)二種類の異なった舞台作品は、作品世界を登場人物の内側から見るのか、外から俯瞰的に見るのか、という視点の問題を提起している。青森版は、地下室人が他者に見せたいナルシスティックな自己表象を視覚化したもので、「あなたは賢い方だから、あとでアドヴァイスをして」や「自分の物語を始めましょう」というセリフを『白夜』から引用する女性の声が、いずれも地下室人の自尊心を高め、しゃべり続ける彼の存在を肯定する理想的な他者の声となっている。他方、京都版ではすべてネズミの影がのたうち回る世界となっていて、女性にセリフを先取りされる地下室人の虚像が、絶対的他者である観客の目にぶざまに曝される。
しかし観客もまた、安全な傍観者に留まることはできない。原作を手に観客と読者とふたつの役割の間を行き来し、視点を多方向に移動させながら、自分としての生きにくさに直面させられる。多くの人に両方の演出を体験してもらえる機会が到来することを願っている。
(AC×2 2022No.23より抜粋)