提供:京都芸術センター
チェンチ一族
私の内部の夜の身体を拡張すること、
私の自我の
内部の無の身体
夜であり、無であり、無思考であり、
夜であり、無であり、無思考であり、
三浦 今回ひさびさに「演劇計画」に声をかけてもらったときに、リーディング公演ならできるよって引き受けたんですね。僕の作品を観たことがある人はわかるかもしれないですけど、僕はよく稽古場で冗談半分に「これじゃリーディングになっちゃうよ」って言うんです。舞台装置が固定してて俳優がほとんど動かないで正面を向いていて、展開がうまくいかなかったとき、迷ったときに「これじゃリーディングになっちゃうよ」って言うのが口癖のようになっているんです。じゃあリーディング公演をやるっていうときに、そのパラドックスというか、だったら空間のことを一切考えないでみる。例えば今日の照明は譜面台に向かっている人だけを照らしているんですね。観客が俳優以外のものを見ないようにするっていうことはシンプルなことなんですけども非常にむずかしいことで、そのことを少しあらためて考え直してみたいなということで引き受けた。
だったら宇野さんと組みたいと。リーディングをやるときの文学性なり思想性なり政治性というものを考えたときに、どうもこれというものがなくて迷っていたんですが、その中にアルトーという名前が出てきた。アルトーは演劇論が非常に有名でそればかりが注目されていて、残された作品もそんなにはない。唯一の長篇戯曲である『チェンチ一族』を読んでみると、内容は歴史劇というか大河ドラマみたいなものなんですね。僕が持っているアルトーのイメージと違って、でもいったんこのメロドラマを引き受けてやってみて、その中から見えてくるものがあればいいなというふうに思っていたわけです。それでしたたかに『チェンチ一族』を読んでいくと、アルトーが演劇論で書いていたような中身、内容がちらほらと出てくることに気づいたんです。そこを丹念に拾ってみて、やってみたらどうかなということで今回取り組んでみました。
宇野 かなりむずかしい試みを三浦さんはしたと思っています。僕はできるだけ、自分の聞いてきたアルトーの声っていうものをイメージして新しい訳をつくってみたいと思い、三浦さんにお見せしました。結果としてはこれが1時間あまりという長さで、相当鍛え上げてきた役者さんたちが読んだとしても、何がどういうふうに伝わっていくかということに関しては、確信がなかったんです。稽古に立ち合って、自分の翻訳が声に出して読まれると、自分で首をかしげていることの方が多くて、いったい皆さんに聞いていただけるようなものになるのかと、まず訳者の立場から非常に不安に思ったんですけれども。一緒にいろいろ作業をして一部また直して、また、かなりゆっくり発語をしてもらってみたところ、ようやく何かになりそうな感じがしてきた。今日実際にできてきたものを観たんですけれども、ある緊張の糸というものが一本、力強い糸が通って、いままで自分で何度も読んで訳してきても見えなかった線のようなものが、はっきりと『チェンチー族』として見えてきて、大変感心もしていますし、アルトーにかわって感謝していますということも申しました。
アルトーの演劇論がとても重要になったのは、まず戯曲と決別するというアイディアのせいです。戯曲、名作、優れた演劇を演じていくというヨーロッパの劇場のルーチンを壊す必要があると、本当に根っこのところから感じたのがアルトーだった。ただそれがちょっと矛盾しているんじゃないかということは寺山修司も指摘していたことで、アルトーは、結局『チェンチー族』のような戯曲も書いている。つまり演劇の体制に激しく衝突しながら、新しい演劇を作ろうとした、そういうもがきの過程そのものなんですね。それがとても面白くて、実はこういうプロセスそのものから、また別の演劇が現れるんじゃないかというようなことを考えながらアルトーを読む。残酷劇で空間・演出というものが命だとはっきりいっているわけですが、もう戯曲なんていらないといいながら、あえて書いた『チェンチー族』は古典的な構造をもちながらも、やはりアルトーらしい作品で、完璧に、一語一語がアルトーの声、文体として読める。そういうアルトーの声に近づけていくということを、翻訳ではできるかぎりめざしたつもりですけれども、もしこのリーディングから上演におぎつけることができるとすれば、そこに何が必要かということもこれから考えてみたいと思っていますけども。
先ほど三浦さんは「リーディングになっちゃうよ」と否定的な言葉で言われましたが、地点は、ある種身振りを抑え、あるいは対話も抑え、演劇における重要な古典的要素をかなり剪定して、役者はあまり動かない、正面を見ている、お互いあまり対話しない、そういう方法を徹底して、台詞自体に従来の戯曲とは違う重みと表情を与えるということをやってきている劇団、演出だと思うから、リーディングでかなりのことができるんじゃないかと期待していました。期待したことはかなり実現されたように思いますし、つまり、読むということプラス、光やノイズも含めていろんな要素がありましたけれど、しかし読むということで演劇が成立するという、これはある意味で大変なことと思うし、実験と思います。単に戯曲を読んで公演前にテストするというか、準備段階とかそういうことではなくて、読むということで演劇に対する1つの問題提起になりうるということですね。それを今日観て思いました。
出典:演劇計画2009報告書
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2008日程・会場2008.12.13-14 京都芸術センター フリースペース原作アントナン・アルトー翻訳宇野邦一演出三浦基出演安部聡子
石田大
大庭裕介
河野早紀
小林洋平
谷弘恵スタッフ演出助手:村川拓也
制作:田嶋結菜
舞台監督:大鹿展明
照明:藤原康弘
音響:宮田充規
制作協力:小倉由佳子
企画:橋本裕介 丸井重樹
広報・宣伝:井神拓也主催京都芸術センター助成アサヒビール芸術文化財団
財団法人地域創造
平成20年度文化庁芸術拠点形成事業京都芸術センター 演劇製作事業演劇計画2008
劇評
テクストに読まれる身体
また、アントナン・アルトーの『チェンチー族』を新訳で演出した三浦基も、それは同じだろう。もはや現代の古典のような扱いとなり、実際の現場ではなかなか取り上げられることのなくなったアルトーの作品を選択した時点で、状況に対してなにか問題を提起しようとする姿勢がある。そもそもアルトーの思想自体を含めて、テクストのみで完結するするようなものではない。それは身体と不可分なものだ。テクストのみでは、「チェンチー族」に関する歴史の事実をもとに書かれた、単なる戯曲として読まれるだけで終わってしまうだろう。
だからこそアルトーの戯曲をたとえリーディングであれ上演しようとすることには意義がある。いや、むしろリーディングという形態がもっともふさわしいのではないかと思わせる箇所すら今回の公演ではあった。アルトーの言葉を、三浦の演出の特徴ともいえる抑揚の抑えた声の物質性を表に押し出すような方法で読ませることは、物語の意味へと還元されずに、俳優の声や身体が物体として、そのテクストの言葉も物体化されたもののように見えてくるからだ。それは、テクストこそが、声や身体というものを必要として、テクストが俳優の身体を読み込んでいくような作業であったといえるのではないか。
リーディング公演というまるで有象無象の現象のようにあるものに対して、リーディングをすることとは何なのかを考えた、また見るものに考えさせる公演であったとはいえるだろう。
演劇計画2009報告書(一部抜粋) 高橋宏幸