2018 アンダースロー / 撮影:松見拓也
ワーニャ伯父さん
痛くて泣くのも悲しくて泣くのも、助けを呼ぶのもただ人を呼ぶのも、ここでは引括めて吼えるという。従ってこの土地で吼えるのは熊だけではなく、雀や鼠も吼えるのである。退屈、限りない退屈。何をして気を紛らそうか。ねえ「ひとつ吼えて見るかね。」ねえ、旦那! 旦那!
人生は苦悩ばかり、それでも一歩前に踏み出さなければ… 楯岡求美
ワーニャ伯父さんはロシアのドン・キホーテである。ドルシネアという麗しの淑女ではなく、セレブリャコーフという崇高なる芸術を研究する学者に忠誠を誓い、時間も財産も、人生のすべてを捧げてきた。しかしセレブリャコーフは、ドルシネアがごくありふれた農民の娘であったように、天才の大学者ではなく、芸術の本質などわからない、愚痴ばかりで了見の狭い痛風病みの小さな人間だった。
ワーニャは目が覚めてしまったドン・キホーテである。身を粉にして働いたのに、彼が得たものはなにもない……。
チェーホフの登場人物たちはみな、なにかを手に入れたかったのに、「なにもできなかった」人ばかりだ。なにかを夢見てあれほどあがいたのに、結果を得られず、まるで怠けて無為に人生を消費したかのようだ。人生は無駄に過ぎ去ってしまい、もはや心の空白をどうやって埋めたらよいかわからない。そんなポストモダン的虚無感を、モダニズム真っただ中のチェーホフが見事に描いているということは驚異的である。
失われた過去の夢に打ちのめされているのはワーニャだけではない。アーストロフもまたドン・キホーテである。医者として人々の命を救う輝かしい人生を送るはずが、そうならなかった。森を、自然を救おうとする彼のドルシネアはアフリカだ。夢から覚めないためにはできるだけ遠く、手の届かないものが良い。行くことが叶わなければ、失敗することもない。目の前に無限に広がるシベリアを、貧しきロシアの自然を救おうとすれば、絶望はすぐそこに深淵の口を開けている。
セレブリャコーフは、ワーニャと違って教授という輝かしい地位を得て、二度も結婚し、ワーニャやソーニャが死に物狂いで稼いだ収入でゆうゆうと生活している。しかし、彼もまた偉大な学者にはなれなかった。人々に愛されたかったのに、彼の言葉や行動はどれひとつとっても怨嗟の的になる。ということは、ワーニャが別の人生を歩んだところで、失ったもの、成し遂げられなかったものへの執着はなくならないことが見て取れる。チェーホフの芝居では「成りたかったのに成れない」人生がフラクタルのように繰り返される。
そこに現れるのが、エレーナである。彼女は本当の麗しのドルシネアなのか?
劇団地点の芝居の作り方はユニークである。もはや伝統演劇とも言える、スタニスラフスキーシステムを土台とする心理主義的芝居では、役になり切った俳優がその人物の人生を再現して見せ、観客は脇の方から様々なライフ・モデルを観察する。しかし、劇団地点は、物語の進行(Story Line)には興味を持たない。彼らにとって重要なのは、作家が戯曲に書き込んだ言葉そのものである。俳優は戯曲の中から自分に働きかけてくる言葉に向き合い、反応する。舞台上でその言葉は俳優の身体を通して声や体といった活字とはことなる表現メディアによって観客に伝えられる。言葉は文学とは異なる演劇の言語に翻訳される。発せられた言葉は、観客が人生の中で触れ、蓄えた言語体験と化学反応を起こす。詩人のブロツキーが言ったように、ひとはそれぞれ固有の言語体系を有し、それは指紋のように個々に異なっている。
物語の筋立てを読もうとすると、読者/観客は、慣れ親しんだ既知の物語を想起してそこに当てはめようとする。この時、作者の個々の言葉に注目していない。書き連ねられた言葉を簡略に要約しながら芝居を見ている。ダイジェストにできる、と思うことは、私たちが読んだり見たりするときにどれだけ言葉のひとつひとつに意識を置いていないかの証拠である。これでは作家の言葉と観客の内的世界が出会うことはない。
劇団地点は、わかりやすい筋立てを徹底して異化する。言葉から通常想起される文脈からかけ離れた思いがけない身振りやイントネーション、繰り返しや音の入れ替え、切断などによって、多くの場合アイロニーや笑いを組み込み、既知の物語を解体する。無駄のない緊張感のある舞台空間も観客にいやおうなく言葉と向き合うことを強要する。観客は受動的に鑑賞し、過去のありきたりな感情を追憶してはいられない。謎めいた他者(俳優)の発する一つ一つの言葉の意味を、それが発せられた意図を考えなおさねばならない。観客もアクティヴェイトされ、芝居というコミュニケーションの直接的な参加者となる。
セリフを文脈から切り離す方法のひとつが、会話の順序を踏襲せず、発話者ごとに言葉を重ねる方法である。今回の演出で際立って異化の手法によってクローズアップされたのはエレーナである。エレーナ役の女優が舞台の前方に出てくる。エレーナのセリフが対話者なしに綴られていく。ほかの登場人物たちもいろいろな愚痴を言っているにもかかわらず、エレーナがこれほどまでに深い苦悩を抱いていたこと観客は驚くだろう。
エレーナのセリフもまた、これまで世界中の舞台で何千、何万回と繰り返されてきたはずなのだが、エレーナのことをステレオタイプに当てはめ、美人なだけの中身のない人物として軽んじ、誰も聞き取ってこなかった。これまでの演出では、主張の強い男たちの会話の中に埋没して聞き取られなかったエレーナの言葉、思い。芸術を、ピアノを愛し、セレブリャコーフとの生活に創造性を期待していたのに、いまや退屈さと疎外に苦しんでいる。ワーニャやアーストロフに口説かれることで、少しは気がまぎれたが、結局彼らもエレーナ自身を求めたのではなく、自分にはまだ何かを手に入れる能力があることを確認したいだけなのだ。彼らにとってエレーナは男として手に入れるべきトロフィーのような飾り物の人形でしかない。彼らは一人の人間としてエレーナを受け入れることはない。エレーナもまた、彼らと同じ悩める人間であるにもかかわらず。良きピアニストにも幸せな妻にも、ミューズにもなれず、心に巨大な虚無を抱えている。
チェーホフの冷徹さは、誰かが特別に苦しんでいるわけではない、世代も性別も関係ない、人生はいつでもどこでも退屈でありきたりだということをいとも簡単に示してしまうことにある。そのなかで、もっとも弱い人間に見えるソーニャにこそ、モノクロな日常につぶされない強さがある。ソーニャの最後のモノローグは、単調に終わりなく繰り返されるうんざりする日常という運命のなかで、彼女を浮かび上がらせる。
人生を振り返ると道は一本だが、もしかしたら、進んでいく道もまた、他に選択肢があると思うのは錯覚であって、そもそも一本しかないのだったらどうしたらよいのだろうか。
もはや一歩一歩、歩みを進めるしかない。それでも、その先にどこか、この過酷な運命が終わって、休める場所にたどり着くことができると夢想し続ける、ときっとチェーホフは示しているのではないだろうか。
地点の芝居では、ソーニャはとても華奢で、息もしていないかのようにじっと、壊れたピアノの上にたたずんでいる。と、突然、ソーニャが言葉を発する代わりにピアノを激しく蹴る。自己評価の高い他の登場人物と違って、ソーニャには、なにも与えられず、絶望から人生が始まった人間の強さがある。重要なのは、失われたものを嘆いて立ち止まらないことだ。ソーニャが地面を蹴るように、足を一歩前に出し、次の足をまた蹴るように踏み出す。我々もまた、そうやって一歩一歩、歩みを進めていくしかないのだろう。
(出典:当日パンフレット)
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2018日程・会場2018.9.8-16 アンダースロー
2018.11.4 マリン・ドルジッチ劇場 (ドブロブニク/クロアチア)
2018.11.8 YARAT(バクー/アゼルバイジャン)原作アントン・チェーホフ『ワーニャ伯父さん』『シベリヤの旅』翻訳神西清演出三浦基出演安部聡子
石田大
小河原康二
窪田史恵
小林洋平
田中祐気スタッフ舞台美術:杉山至
照明:藤原康弘
衣装:堂本教子
音響:堂岡俊弘
舞台監督:大鹿展明
宣伝美術:松本久木
制作:田嶋結菜主催合同会社地点助成公益財団法人セゾン文化財団
公益財団法人全国税理士共栄会文化財団
*以上、「観劇観能エクスチェンジプログラム」への助成
文化庁文化芸術振興費補助金(舞台芸術創造活動活性化事業)独立行政法人日本芸術文化振興会FESTIVAL DUBROVNIK ART FORUM(クロアチア)
M.A.P. Festival(アゼルバイジャン) -
2019日程・会場2019.1.1-3 / 7.27-29 / 8.6-8 アンダースロー
2019.6.12-13 トフストノーゴフ記念ボリショイ・ドラマ劇場(サンクトペテルブルク) -
2020日程・会場2020.11.6-8 アンダースロー
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2022日程・会場2022.5.3-15 アンダースロー
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2023日程・会場2023.3.3-4 / 3.10-11 アンダースロー
劇評
劇団地点はロシアの観客に新しい発見をもたらしてくれる。第一には、細部までは我々には理解しがたい「東」であるからだが、第二には地点は東と西、つまり西洋と東洋の演劇を結び付けてくれるからだ。京都に拠点を置くこの劇団は日本の伝統にとらわれず、古代から現代にいたるヨーロッパの演劇の優れた伝統に堂々と参加している。第三に、とても多彩なレパートリーを有していることが挙げられる。シェークスピア、ブレヒト、ロシアの古典作品から日本の戯曲まで。コリオレイナス、桜の園、ファッツァーなどのうちのいくつかでも、地点の芝居を観ることができた幸運な観客は、繊細で印象的な三浦基の演出やユニークな音楽の使い方、優れた俳優のアンサンブルを忘れないだろう。観客は地点の作品をひとつ見ると、新しい演劇的な発見を求めて、また次の作品を観たいと切望するのである。
エレーナ・ゴルフンケリ
(ペテルブルグ・演劇アカデミー教授、演劇評論家)