2018 KAAT神奈川芸術劇場 / 撮影:松見拓也
山山
ああもうやだやだ、あの日までそしてあの日からもそこはサチコたちの場所であり、 サチコたちはそこにいたいと思うのだから、誰にもサチコたちをそこに出入りさせない権利などありませんね。
演劇って難しいな、と松原戯曲をやっているとつくづく思います。私の演出の場合、演技上のルールができないと一歩たりとも歩けないのはいつものことですが、殊にこの作家の日本語を扱っているとなかなか前に進めない。何が問題かということを見落としがちになるからかもしれません。それは、同時代の日本人の書いた日本語によるテキストがわからないわけがないという私の過信なのかと疑ってみますが、実はそうでもない。誰の立場でモノを言うのかということを演劇は常に問うている。その立場が明確であればあるほど、当然、その劇作は古典的なものへと後退してゆく。今さら王様の苦悩をどう聞いたらいいのかなんて、私も観客も興味なし。一方でホームレスのつぶやきだったらと考えると、これも説教くさい気がして聞きたくない。これが現代に生きる私のごく普通の感覚だとすると、じゃあ今さら演劇で何を見る必要があるのかと思っているところに、「おかえり」なんて台詞が飛び込んでくるのが、今回の『山山』でした。誰が誰にこんなことを言えるのか? 妻が夫に? 母が息子に? 妹が兄に? 家族なんて今さら立場になり得るのだろうか、と思ってしまう私の感覚はごく普通なはずだ。だから「おかえり」と誰が言えるものかと悪意を持って台詞を眺める。「わたしは鬼ではありません」ちゃんとあった。立場否定。相対的な「わたし」の流転がそこかしこに生じる曖昧な登場人物たちは、確かに私たちの生きる今の社会では普通なのだろう。しかし、繰り返すが、誰の立場でモノを言うのかということを演劇は常に問うている。ということで、完全に演出のねつ造ですが、今回の登場人物は鬼とします。鬼の立場からモノ申します。鬼は神ではありませんし、人間でもありません。鬼は鬼です。一応、なまはげも調べました。よく考えれば、あの行事では家族側は家族を演じているわけです。地点の鬼たちは群れて生息する傾向があることが判明しました。まるで家族のように。いや、やっぱり家族なんて通用しません。あくまで鬼です。今日は鬼の言い分をどうぞ聞いてみてください。
三浦基
出典:当日パンフレット
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2018日程・会場2018.6.6-16 KAAT神奈川芸術劇場〈中スタジオ〉原作松原俊太郎演出三浦基音楽空間現代出演安部聡子
石田大
小河原康二
窪田史恵
小林洋平
田中祐気スタッフ美術:杉山至
衣裳:コレット・ウシャール
衣裳製作:清川敦子
照明:横原由祐
音響:徳久礼子(KAAT神奈川芸術劇場)
舞台監督:藤田有紀彦
プロダクション・マネージャー:山本園子(KAAT神奈川芸術劇場)
技術監督:堀内真人(KAAT神奈川芸術劇場)
宣伝美術:松本久木
制作:千葉乃梨子(KAAT神奈川芸術劇場)、田嶋結菜主催KAAT神奈川芸術劇場
助成平成30年度文化庁劇場・音楽堂等活性化事業