作品概要 地点とKAAT神奈川芸術劇場との共同制作作品第3弾。2012年に初演した『トカトントンと』の2本立て上演。引き続き、太宰治の小説を原作に、『トカトントンと』と共通の舞台装置で演じた。全篇走り通しての上演という前代未聞の演出、オペラ歌手青戸知との共演と、初めての挑戦も多い舞台だったが、走り切った。

駈込ミ訴ヘ

 

駈込ミ訴ヘ

 

駈込ミ訴ヘ

 

撮影:橋本武彦

 

 

2013  
日程・会場

2013.3.7-26 KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ

 

原作 太宰治
演出 三浦基
出演 青戸知
安部聡子
石田大
窪田史恵
河野早紀
小林洋平
スタッフ 美術:山本理顕 (山本理顕設計工場) 
照明:大石真一郎 (KAAT神奈川芸術劇場)
音響:徳久礼子 (KAAT神奈川芸術劇場)
衣裳:堂本教子 (KYOKO88%) 
舞台監督:山口英峰 (KAAT神奈川芸術劇場)
プロダクション・マネージャー:山本園子 (KAAT神奈川芸術劇場)
技術監督:堀内真人 (KAAT神奈川芸術劇場)
宣伝美術・WEB製作:松本久木 (MATSUMOTOKOBO Ltd.)
制作:伊藤文一 (KAAT神奈川芸術劇場) 田嶋結菜 (地点)
広報:熊井一記 (KAAT神奈川芸術劇場)
営業:中里也寸志 (KAAT神奈川芸術劇場)
主催 KAAT神奈川芸術劇場 (指定管理者:公益財団法人神奈川芸術文化財団)
助成 平成24年度文化庁優れた劇場・音楽堂からの創造発信事業
EU・ジャパンフェスト日本委員会
  KAAT神奈川芸術劇場〈NIPPON文学シリーズ〉 地点×KAAT共同制作作品

 

 

演出ノート
三浦基

「わたしはあなたを愛しています。」というようなストレートなせりふがもし台本にあったら、その劇作は相当めでたいものに違いない。私としても、そういう類のものはやらないように努めている。(もちろんたくさんお金を積まれて、どうしても演出して欲しいと頼まれたら、なんとかダサくならないように工夫して、どうにかこうにかやるとは思います。幸か不幸か、これまでそういう機会を与えられたことはないのですが。)
私の演出にもし特徴があるとすれば、「私はあなたを愛しています。」といったメッセージをどうやって人前で恥ずかしくなく、偉そうにでもなく語ることができるのかということを、考え続けてきたことだと思う。その結果、地点の劇では妙なしゃべり方をするようなってしまった。
さて、太宰治の小説『駈込み訴え』だが、もろにあった。「わたしはあなたを愛しています。」が……。そのまんま。なんのひねりもなく。さらっと。恥ずかしげもなく。いや、情熱たっぷりに。とにかくその通りに!ここだけの話、稽古を開始してから、この一文に気がつくというお粗末さで、ちょっとびっくりした。耳を疑った。私の聞き間違いなのか?……間違いなわけがない。ちゃんと書いてある。
「わたしはあなたを愛しています。」冷静になろう。「わたし」とは誰か。「ユダ」である。「あなた」とは誰か。「イエス」である。「ユダはイエスを愛しています。」ふむ。ここからが問題。「わたし」は太宰でもある。太宰はユダという人物を借りて自己主張しているのだから。つまり
「わたし」=「ユダ」=「太宰」……①
である。じゃあ「あなた」とは誰か。奇妙なことにこれもまた太宰かもしれないのである。聖書からの引用、イエスの発言部分の脚色は、悪ふざけと取れるほど太宰的である。となると、
「あなた」=「キリスト」=「太宰」?……②
この二次方程式を解くと
「ユダ」=「イエス」?
つまり
「わたし」=「あなた」? 
となる。さてここからが太宰を演劇化するための態度が問われるところだ。演劇化とは、彼の書いたものをわざわざ俳優を通して人前で発語するということだ。それは、太宰の小説をみなさんがひとりで黙読すれば済むところを、わざわざお節介を焼こうというのである。実は私は、この種のお節介に少なからぬ希望を見出しているのであるが、では太宰にどんな希望があるというのか。もう一度、方程式を整理しよう。
「わたし(ユダ)」=「あなた(イエス)」?
 だったものを
「あなた(イエス)」?=「わたし(ユダ)」
と順番を変えて眺めるとずいぶん違った感じがする。主語が「わたし」から、「あなた」へ変わるような錯覚がある。ここからさらに物語を省くと、
「あなた」?=「わたし」
となり結局
「太宰」?=「太宰」
となる。この際、太宰も省いてみると、〈?〉だけが残る。
この〈?〉は何かと言えば「かもしれない」というあやふやなやつだ。「太宰かもしれないやつは太宰だ」ということだが、彼が津島修治という本名を自身の小説の中に登場させることによって、あるいは太宰治も同様に登場させることによって「嘘のノンフィクション」をやってのけた作家であることは言うまでもない。そして〈?〉についてもう少し冷静に考えるとそれはやはり「他者」としか言いようがないのではないだろうか。「他者」とは決して他人ではない。我々は他人のことはある程度知っている。この作家の最大の興味は、まさにこの「他者」にあったのではないか。『駈込み訴え』では強烈な他者であるイエスに向かった。『トカトントン』では、玉音放送という天皇の、本来であれば聞く事のできなかったはずの声が、得体の知れない他者であった。肝心なのは、これらの他者は「わたし」の感覚を辿って出合うのではなく、「あなた」という考え方からスタートするということだ。
確認したい。太宰文学は決して私小説の範囲でくくれないし、ましてやオレオレ文学などではない。「役者になりたい」とは、小説の中で道化を演じる彼の本音だったろう。ロマンチックなどと侮るなかれ。彼は他者に出合うためには、俳優という職業が手っ取り早いと直感していた。だから私が太宰の小説を演劇化するのは、彼の擁護のためではさらさらない。むしろ太宰を踏み台にしてその他者というやつをよくよく見てみたいだけなのだ。
なぜって、そこにあなたが座っているからです。はっきり言いましょう。あなたこそが他者だということを嫌でも感じるからです。わたしってややこしいですね。そういうところにわたしもあなたも身を置いているということなのです。まずはそこからスタートしましょう。長々と講釈してしまいました。劇のはじまりです。

出典:当日パンフレット
劇評 「駈込ミ訴ヘ」の昂揚感・解放感を何と言ったらいいのだろう。あんなに心がのびのびとし、気持ちよく開かれていく体験は、そうそう出来るものではない。
太宰治のよく知られたこの短篇は、イエス=キリストの十二弟子の一人であるユダが、敵のもとに駆けこんでイエスを売渡す、そのときに語った告白というスタイルで書かれた小説だ。ユダの、イエスへの屈折した愛と嫉妬が痛いほどよく描かれている。
クリスチャンである私にとっても、ユダをどう考えるのかは、答えの出ない難しい問いだ。太宰の描いたユダを、三浦基がどう演出するのか、予想もつかないまま客席に座った。
しかしどうだろう。オープニングから、役者たちの、特に安部聡子の、晴れ晴れとした顔は。まるで「駈込ミ訴ヘ」するのがうれしくてたまらないようだ。
五人の役者たちは、誰がユダ役、イエス役ということはない。ボールをパスしていくかのように、せりふが役者たちの間をめまぐるしく飛びかう。あるときは二人が同時にボールを持つ。つまり声を合わせる。なにかオペラを観ているような音楽性を感じるな、と思ったら、バリトン歌手の青戸知の声が響く。
全体を貫く、どこか懐かしい感じが私の心を楽にし、解き放ってゆく。小さなロバにまたがり、エルサレムに入るイエスを演じる場面など、おっとっとというふうにかつがれる役者のかわいらしいこと。
どんなに屈折していようと愛は愛。絶望しようと愛は愛。どんなにみじめな告白だろうと、愛の告白は晴れがましく喜びにあふれたものなのだ、と舞台全体から感じられた。
効果的な照明は使われるものの、映像に頼ることなく、身体表現に集中した舞台であるのも気持ち良さの理由のひとつ。
こういう作品が出来るのも、ひとつにはKAAT(神奈川芸術劇場)でじっくり創作する時間にも恵まれたからだろう。上演する空間で稽古が積めるのは何よりのことだ。

テアトロ 2013年6月号
林あまり